仏教を信じるためには、あなた自身の自由と知恵が不可欠です。|スマナサーラ長老の初期仏教法話より【字幕付き】 - YouTube
仏教の「信」とは納得である。
仏説の核心「無我」を納得するまで
聞法するのが仏教徒である。
ブッダが発見した
無我という真理
は、生物一般の宿命的盲点になってる。
「我」を(錯覚と知らず)
自明の大前提にしてる現代人は
やられたらやりかえせ。
殺される前に殺せ。
という主張を、
今でも100パー正しいと確信し
全力で支持する。
実に
考えれば考えるほど、
彼はそうせざるを得なくなる。
彼には、他の考え方は絶対できないのだ。
なぜなら
「我」の奴隷である現代人は、
今も原始人のままだから。
賢愚を問わず誰もが
「俺」ほど確実な実感は他にない
と思いこんでるから、
「俺、俺のもの」は錯覚だと言われたら
「…あほか」と聞き流す。
では、たとえ話をひとつしよう。
水の入ったグラスに差してあるストローは
折れ曲がって見える。
光の屈折でそう見えるだけで、
本当はまっすぐだと誰でも知っている。
しかし、
ストローはまっすぐだと知ってからも、
グラスのストローは
なにも変わることなく
曲がって見えてる。
光の屈折が理解できない原始人なら、
いくらストローはほんとは曲がってないと説明しても、
「いや曲がってる。この目で見てるから間違いない。
絶対まっすぐに見えないから!」と言い張る。
もしまっすぐに見えたら、
それこそおかしいのだが。
気づいてしまえば
「なんだ、そんなことか」
という単純明白な事実なのに、
気づかないうちは、ほとんど理解し難い。
ブッダだけが、「我」は錯覚だと、
ストローをグラスから抜き出して見せるように、
明晰判明に示した。
世間のいう、ありがたいものには、
鳥なき郷の蝙蝠
がなんと多いことだろう。
世間で何千年も崇められてきた
宗教や哲学という「物語」は、
すべて
「我」を(錯覚と知らず)
自明の大前提にして、
紡ぎだされた妄想にすぎない。
ブッダの諭しのまえでは、
他のかたじけない教えや知恵はすべて、
鳥なき郷の蝙蝠であったことが、
あからさまになる。
(My Favorite Songs)
BJトーマス。
「雨に濡れても」
スパイダーマン × 雨にぬれても/Raindrops Keep Fallin' on My Head - YouTube
(過去記事統合増補編集再録)