哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

デカルトとブッダの関係

 

 

 

 

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 デカルトは、熱心に勉学・思索することによって、(偉大な思想家がすべてそうであるように)まず自分がまったく無知であることを学んだ。

世間の人々は何かを知っているのだが、自分は何ひとつ知らないと謙虚になるのではない。

世間の人々も自分も共に何も知らないのだが、その事実をはっきり知っているのは、自分だけだという自覚である。






 デカルトは方法的懐疑という手法で、極めて技巧的に自分を「無知の知」に持っていった。
方法的懐疑は、確実なものはなにもないと認めざるを得ないところまで、デカルトによって論理的にかってないほど徹底して続けられた。
この段階で、デカルトは自分がなにも知らないことを確認する(理詰めの無知の知)。
この、いささか頭でっかちな無知の知のレベルは、本家ソクラテスに比べたら、ちょっと軽いのかもしれない。

しかし実は、デカルトの目的は最初からその先に設定されていた。
無知の知デカルトにとっては、その目的(明晰判明な真理コギト・エルゴ・スム)に達するために通る必要のあった通過点にすぎなかった。無知の知を、目的のための手段に使ったともいえる。
だから少々軽くても問題なしとしたのだと思う。
この見切りがデカルトの凄いとこだと思う。

 一般に、デカルトは深みがなく、比較的簡単に理解できる思想家だと見做されているが、おれはそうは思わない。
デカルトは明晰かつ深遠な哲学者だと思う。

 

 

 
 
 
方法的懐疑について。

 優れた教育者は歴史と経験に学び、「信」が、人の欲望の仮面に過ぎない場合のいかに多いかをよく承知している。

そして、偽物の「信」が甚だしく自他を傷つけることを知って、徹底した懐疑こそ教育の基礎だと認めるようになった。

すぐに信じる「本を背負ったロバ」を歓迎するのは、扇動家や商人や政治屋たち…人間を道具として蕩尽する連中だ。

本当に自律的価値観念を持つためには、デカルト方法序説で模範的にやってみせたように、すべてを積極的に徹底して疑ってみなければならない。 

それは実際にやってみた者でないと分からない、不安で辛い体験だ。
この事実は意外に知られていないが、気の弱い人には、とても勧められないとおれは思う。

それを怯まず最後までやり通した者が得る一つの不思議な事実が、あの有名なテーゼ「我思う。ゆえに我あり」の内実だ。
方法序説という薄い本をすらすら読んで、
「ああ、そういうことか。わかった」と言えるようなものではない。

デカルトは、あらゆる不確かなものを捨てたすえに、人間には「我思う」というような我しかないのだということを発見した。


だから、ずっと後になってビアスが、これは「我思うと我思う。ゆえに我ありと我思う」のいいまちがいじゃないかと、皮肉たっぷりのつもりで反駁したのは、実は全然皮肉にも反駁にもなっていなかった。


つまり、ここで問題になっているのは、正にそのような直接とらえようとすれば合わせ鏡の迷宮(メタ認識の迷宮)にすべてのものを引っぱりこむ意識それ自体だ。
意識する自分を意識する。
そのような「思う」だけがある。

我思うと思うと思うと思うと思うと…これは恐ろしい孤独だ。


デカルトの我とは、「母が殺されていたら存在しなかったわたしの意識」
パンセ469などではない。

デカルトに現われ、デカルトが我と呼んだものの最初の形態は、むしろ母が殺されていても父が殺されていても存在している我…あの「父母未生以前自己」に近かった。
つまり、デカルトの発見した「我」と二元論の間に必然的つながりはないとおれは思う。


 デカルトほど浅薄に誤解されてる哲学者はほかにそういないと、おれは思っている。

「我思う。ゆえに我あり」は推論ではない。表現上AだからBという形をとってるだけ。
「我思う。ゆえに我あり」は一種の悟り体験だ。
メタ認識の迷宮。この真の孤独の只中において、デカルトは確かに一隻眼を得たのだ。

そうでなければ
 
自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である
(明晰判明の規則)
 
をそこから発見することは不可能だからだ。デカルトの真価はこの発見にあり、自己の存在証明なんかじゃない。このことはデカルト方法序説で完璧にやってみせた「方法的懐疑」をつらさに耐えて実際に実行しなければ理解できないと思う。

一例におれ自身の体験を言えば、デカルトが「我思う。ゆえに我あり」から、まっさきに明晰判明の規則を導き出すくだりで、初めて読んだ中学生のおれは
 
なんでそうなる?
 
とごまかされた気分になり失望したのを、今でも鮮明に覚えている。
 
 それは文字の上っ面だけ読んでわかったつもりになっていたからだったと後で気づいた。
この箇所こそ直接表現不可能なことを、それ以外の周囲全てを緻密に塗りつぶす手法で、ブラックホールのように浮かび上がらせている最重要ポイントで、失望してる場合じゃなかったと。それからは本を読む心構えが変わったので、これは実に良い体験だったと思っている。

 ライプニッツ「我思う。ゆえに我あり」をAゆえにBだと思っているので、そデカルト批判は的外れになっている。
 
 
 
 
 
 
 
 現代の物質主義の悲劇をデカルトのせいにする通説もあるが、悲劇を始めたのは、自分で方法的懐疑をやりもせず、本だけ読んで「ああそういうことか、わかった」とかってに誤解した我利我利亡者の連中であって、デカルトじゃない。 

「我思う。ゆえに我あり」
あえて一切を疑っても、その疑う自分が存在することだけは疑いようがないとデカルトは主張した。
総じてこのように理解されているが、その一般的解釈は間違いだ。


この人間にとって避けにくい間違いは、何よりもひとつの事実を証明していると、おれには思われる。
ブッダが発見した無我という真理は、生物一般の宿命的盲点になっており、ほとんど理解し難いという事実を。

「我思う。ゆえに我あり」のデカルトその人は無我の真理にあと一歩まで近づいていた、とおれは思う。
「我思う。ゆえに我あり」と無我では真逆だろと一見思えるが、実は意外に近い関係だ。ブッダは実体はないといい、デカルトは「思う」だけしかないといった、近いでしょ。




それで、ここを出発点にデカルトは仏教的な世界に進むこともできた。

しかし、キリスト教の影響力がようやくかげりを見せはじめたとはいえ、なお人間と人間が、神という装置を通して繋っていた当時の西洋的伝統のうえに、ある意味で安心して立っていることのできた幸福なデカルトは、後に現われるショーペンハウアーニーチェのような伝統破壊者になる必要はまだなかった。






 ちなみに、真理発見法には、デカルトの「方法的懐疑」以外に、

「方法的信」

とでもいうべき道もあるはずだ。

「方法的懐疑」も危険だが、さらにその100倍も危険なのが「方法的信」だ。

冒頭述べた「人の欲望の仮面に過ぎない偽物の信」とは、まるでレベルの違う話だ。

おれにはとても無理だが、これをやりこなせる人間は、そういるものではない。

ヒンズーの聖者ラーマクリシュナが、キリスト教イスラム神秘主義などを深く理解し得たのは、この「方法的信」の実践による。





ルネ・デカルト(ウィキペディア)参照

ラーマクリシュナ(ウィキペディア)参照
 
 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)

 
(過去記事統合編集再録)

 

 

何をもって自己確立と定義できるか

 自己の確立が大事だといわれる。

では、なにをもって、自己を確立したといえるのか。



人間は、自分で望んでする
内発的行為と、
いられてする(させられる)
外発的行為を、
はっきり区別できるようになって、初めて自己を確立したといえる、とおれは思う。

この基準を厳密に適用すれば、自己を確立するまでに発達した人間は、めったに現れないことになる。

そして、それは残念ながら事実にちゃんと合っている、と思う。



生身の肉体を持ってこの世界にいる以上、内発的行為のみで生きることは難しい。しかも外から強いられてさせられる行為に従うと報酬がもらえる世界システムの中では、多くの人が自欺して、外的強制をいとも簡単に自発行為と信じてしまう。その方が断然楽ちんだからだ。


ある者が、外発的行為を強いられると仕方なしに従うが、そのつど(これは外発的行為だ)とはっきり気づくなら、偏屈な生き方だが、最低限の自己確立はできていると思う。しかし、上の場合と結果は同じなのに楽ちんじゃなくなり、周りからめんどくさい奴とみなされ疎まれる。つまり最低限の自己確立でさえそう簡単ではない。

ちなみに、おれは、不甲斐ないとおもっているが、自己確立できてない。






 ところで「自己確立などは西洋かぶれの悪習に過ぎない。大事なのは無私奉公の精神、仏教でいうところの無我である」と主張する人が少なくない。

おれは自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものと思っている。


これについて書いた過去記事も以下に載せておく。




悟りを目指す準備段階として「自己の確立」が必要だ。

「自己の確立」は、本来無い自己を立てるのだから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(乃至ないし最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための苦労でないのかとか言う人がいる。

そういう人は、言葉の字面に迷っているに過ぎない。

戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。

自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわするるもない。
厳密な意味での自己確立がまず容易ではないが、無我はさらにその先の話になる。
ようやく自己確立を達成したとしても、それで満足すると、野心家の人生で終わってしまう。さらに先に進むためにはヴィパッサナー実践の成就が必要だとおもう。




ちょっと整理しておきたい。
『平均人→野心家(悪人→正義の人)→聖者』

が人間の成長パターンだ、というのがおれの持論です。
以前書いたことですが、
ショーペンハウアーは、しだいに高くなる三つの人間精神について語っていると思う。
キーワードは「生きんとする意志」だ。(以下は、おれのかってな解釈)


平均人自然的人間
 生きんとする意志の肯定が動物同様に自然のままの段階。
(スタート地点は空海の十住心論と同じ。第一異生羝羊心にあたる)


野心家悪人と正義の人
 生きんとする意志の肯定が自覚的積極的になる段階。これには二種類ある。
個別性の迷妄にとらわれている者は極端なエゴイスト=悪人になる。
個別性の迷妄をいくらか打ち破った者はその程度によって、冒険家、慈善家、革命家、宗教家などになる。彼らを「正義の人」と呼ぶことにする。


聖者
 生きんとする意志を否定する段階。精神の最高の段階。

空海の十住心論よりも、簡潔明瞭だと思う。


野心家の心理として現れるのが「自己の確立」で、野心家の最終形である「正義の人」の心理として現れるのが「発菩提心」です。
したがって、「自己の確立」は「発菩提心」を含む、より広い概念です。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

 1910フルーツガム・カンパニー。
Simon Says
 
 
 

 ペンギンズ。
「アース・エンジェル」
この曲は後に映画Back to the Futureの超有名シーンで効果的に使われた。
 ペンギンズというグループは覚えてない。しかし、こういう雰囲気の曲は、当時流行っていて何曲も聴いた。
 
 
 
 
 
 
 
 デル・シャノン。
「悲しき街角」
 
 
 
 
 マーベレッツ。
「プリーズ・ミスター・ポストマン」
 ビートルズのカヴァーが、出だしのヴォーカルのキレとテンポのよさで一歩勝った。
 

 
 
 
 ビリー・プレストン
「ナッシング・フロム・ナッシング」
 
 
 
 
(過去記事統合編集再録)

マインドフルネス

 以前、NHKスペシャル キラーストレス 第2回「ストレスから脳を守れ」を見たときの感想。

「最新科学によってその効果が裏付けられた誰にでもできる画期的なストレス対策を、世界の最前線から報告する」といって、何千年も前にブッダが実践し悟った「今ここ」に気づくマインドフルネス瞑想法のごく一部を、不十分に教えている。




● 瞑想は無常を体得するための実践だ。
これを言っていない。

そうと気づいていないからだ。
 
これでは、ちっぽけな一時しのぎの効果しか出ない。

また、
● メソッド(方法)が混ざる危険に注意が不十分だ。

これでは、すこし先に進めばすぐ混乱してしまい逆効果になる。

● マインドフルネスを本当に成功させる必須の前提、苦聖諦の理解が抜け落ちている。

これでは、実践の継続は始めから不可能だ。
「今ここ」に気づき続ける実践に絶対必要な特別な活力は、苦聖諦を学ぶことでしか得ることができないからだ。
 
 
 
 
 これら肝心のことを抜きにした瞑想は、根のない切り花のような瞑想で、すぐ萎れ枯れてしまう。
 
実際、あなたのマインドフルネスは、まともに5分もたないではないか。

 
 
 
 
(おまけ)
 懐かしの曲まとめ1。

 

 まずダイアン・リネイ。
「悲しき水兵さん」

【歌えるオールディーズ 97】 ネイビー・ブルー (ダイアン・リネイ)

 

 

 ロルフ・ハリス。
「悲しきカンガルー」

【Tie me Kangaroos down, sport - Rolf Harris

 

 

 昔の洋楽邦題は「悲しきナンタラ」が多かったんだ。

 

 バッドフィンガー。
「嵐の恋」

 

 


 

 テイスト・オブ・ハニー。
「今夜は ブギ・ウギ・ウギ」
 
 
(過去記事統合編集再録)

みずから考えてないことに気づかない人々

人生の目的

「人生の目的」(五木寛之幻冬舎)を読んで、自分勝手な感想を書く。


世界の中で一番面倒くさいことは何か。
みずから考えること。

世の中で一番嫌なことは何か。
自分が死ぬこと。

ところが、
一番嫌なことを少しでもましなものに変えたい一心から、
一番面倒くさいことをせざるを得なくなる
──それが人生だ。



著者が何十年もみずから考えることをし続けて知り得たことは


人生の目的の第一歩は、生きること、である。何のために、という答えは、あとからついてくる…
              (「人生の目的」 五木寛之


多くの人たちは「何十年も考えて、たったそれだけか」と笑う。

その心は、
   「人生の目的は、生きることである」
=「人が生きる意味は、生きることである」
…なんだトートロジーじゃないか、
なにも言ってないに等しいじゃないか、と。

これは
みずから考えることをしていない人の特徴的反応

である。
 
 
 
 
 
 
(おまけ)
 ニッキー・ミナージュ。
“Pound The Alarm”

左腕のタトゥーは「上帝與你常在」
神はいつでもあなたのそばに
ウィキペディア
 
(過去記事統合編集再録)

亡者は生きているものの道具である

 

パラノーマル・アクティビティシリーズをDVDで観る。


パラノーマル・アクティビティ:予告編

 

この映画はエンターテイメントとして上手に作られてる。

しかし2007年の最初の作品自体にも監督の話にも、10年くらい後のVRゲームにも

お化けは人間の道具

という事実が露骨に現れているとおもう。

この道具は、使いこなす力量のない連中にとって自他を傷つける凶器になる。

 


映画「パラノーマル・アクティビティ 2」(米国版)予告編

 

 

澤木興道老師の言葉。
 よう「幽霊というものがこの世にあるものですか、ないものですか」などと質問する奴があるが、そんなことを考えておる人間を幽霊と言うんじゃ。



 亡者が出てくるとよう言うが、それも生きているものがある間だけのことで、もし生きているものがなくなると、亡者も化けて出てこない。亡者は生きているものの道具であると、「二十唯識」には出ている。


以上「禅に聞け」沢木興道老師の言葉より 櫛谷 宗則 編 大法輪閣

 

 

 

 

 

(おまけ)

「ドゥ・サムシン」

ブリトニー・スピアーズ

 

この人、シンディ・ローパーのアイドル版って印象。


Britney Spears - Do Somethin' (Official Video)



「トキシック」
このごろはネットでも普通に高解像度で観れるようになってほんとすばらしい。


Britney Spears - Toxic (Best Performance!) HD (Abc Special)

 

(過去記事統合増補編集再録) 

 

 

世間は、人生が無常であり苦であるという事実の反対を向いてる

ブッダの真理のことば ダンマパダ328 中村 元訳)より引用

もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

(同329)
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

(同330)
愚かな者を道伴れとするな。
独りで行くほうがよい。
孤独ひとりで歩め。
悪いことをするな。
求めるところは少なくあれ。
──林の中にいる象のように。

(以上、引用終)








おれが、愚かな者だ。
しかし、だから孤独ひとりで歩むより、多くの愚かな者達と道伴れになったほうがましだとは思わない。多くの者が、まさにそう考え、そうしているのだが。

そんな生き方が楽しいとも、うらやましいとも思わない。
むしろ、目をそむけたくなる。

おれは、つらくても、さみしくても、独りで行くほうがよいと思う。

(ダンマパダ328は、理想的で幸福な人生だが、残念ながら実現しそうにない)


おれの場合は、孤独ひとりで歩む、独りで行くとは、森で仙人暮らしすることじゃなく、内心の決意のことだ。

「小人は同じて和せず」だが、その中にあって「和して同せず」の生き方をする覚悟だ。

これは尊い君子の道で、愚か者のおれにはどだい無理な話だが、それでもやるしかないところまで追い込まれた。

人生が無常であり苦であるという事実に多少でも気づくと、世間は事実の反対を向いてるから、どんなに嫌でも心細くても世間から独り立ちするしかなくなる。

それが良くても悪くても無理でも、この生き方よりできないんだから、選択の余地はない。

したがって悩む余地もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

 

 

 デジャ・メイク・ハー!!おれ、この曲が異常に好きだった。何回続けて聴いても飽きなかった。

 

 

 

(過去記事増補再録)

ブッダはオーバーな表現をしない

ブッダの真理のことば ダンマパダ103~105中村 元訳)より引用。

戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

(引用終)



 釈尊は事実に反したオーバーな表現は決してしない。
この百万人と唯だ一つの自己のたとえは、いわゆる白髪三千丈の類とは全く違うことに気づくべきだ。
一個人が自己にうち克ち、つねに行ないをつつしみ、自己をととのえることが、人類一般の想像をはるかに超える際立って優れた価値を有していることを、釈尊は鮮烈に説いている。

そして次の、百年と一瞬間の対比も。



(同106,107)より引用。
百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀まつりを営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

百年のあいだ、林の中で祭祀の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

 

 








(おまけ)

 

 

 10代のころ大好きだった曲。

 

今聞くと、どおってことないぬるい曲なんだけど、

当時はこんな感じの曲ばかり好んで聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

どこか深い夢の中で生きてた時期。

今も夢から覚めてないが、だいぶ浅くなった。



 

 

 

(過去記事増補再録)