たとえば、
「シンデレラコンプレックスやピーターパンシンドローム
という学者の主張が真理だと思われてる。
本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。
こういう微温的思想が真理であったためしはない。
もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネヴァーネヴァーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。
しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。
ユークリッド空間----リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間--ネヴァーネヴァーランド
幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。
ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。
蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。
生きとし生ける無数の存在の中で、
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、
遺伝子に
彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。
神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
人間以外の生き物には与えられてない精神の自由のことだ。
遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。
遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしてるものである。
その偉大な能動的側面を見て「遺伝子は神だ」という者もいる。
そうなると、おれはバランスをとりたくなり「遺伝子は悪魔だ」という。
遺伝子のプログラムに支配され、殺し殺される修羅場を演じる自動人形(含人類)として、一生を終えるほかない、生きとし生けるものの惨状を
それぞれが生命を捧げあってる。大自然のなんと見事な秩序だろう
と人が認め、賛嘆までしてしまうのはなさけない。
この世は、遺伝子の支配下にある。
このことを、人は片時も忘れてはならないとおもう。
自分を生かしてる事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。
もちろん遺伝子の働きを超えようとしても、つねにその裏をかくようにプログラムが幾重にも幾重にも作られてる。
難しいが、あきらめたら、その時点で人は終わる。
なぜなら、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけで、他の生きとし生けるものは、全くその可能性をもってないからだ。
人がそのことを忘れて
他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。
西洋思想は、人と人以外の存在を区別するのは当然とみなす。
これは正当なものなのだ。
この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄してる論調をよく見かけるが、愚かしいことだ。
(My Favorite Songs)
Mr.Children「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~」from TOUR 2017 Thanksgiving 25
Mr.Children「名もなき詩」from Mr.Children Dome Tour 2019 “Against All GRAVITY”
(過去記事再録)