存在問題不感症
宗教は、根本的に存在問題である。
存在問題というものに、人間は逃れようなく直面している。
たとえ話をひとつ。
生理の始まらない少女が
「周りの女たちが生理用品を使っているが、あれは間違っている。生理用品など必要ないことに、どういうわけで気づかないのか。私は生理用品が完全にいらないことを知っている。私には事実必要ないのだ。従って、生理用品などこの社会からなくしてしまうべきである」
と真顔で主張したら、みんなその小娘の幼稚さに噴き出すだろう。
ただし、その少女と頃合いのレベルの方々がいれば、やはり真顔で誠に賛成だと思し召すだろう。
宗教について、類同の感想を抱いている人は多い。
「私は宗教など必要ないことを知っている。私には実際必要ないのだ。ところが周りの連中は、どういうわけかそれに気づかない。ばかなやつらだ」と。
「存在問題への気付き」がいまだ始まっていない人に、宗教の事はてんからわからないのだ。
しかし、多くの人は手遅れになるまで気づこうとしない。
さあ、いよいよ死ぬ、というその時になって気づいても間に合わない。
生きとし生ける無数の存在の中で人間だけに与えられたかけがえのない宝。
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、大多数の人間ははかなく死んでいく。
古くなった車を買い換えるように、遺伝子に乗り捨てられて。
彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。
聖書に一つのたとえがある。
神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
というたとえだ。(マタイによる福音書25,14~29)
この、神の金とは何か。
人間以外の生き物には与えられていない精神の自由のことだ。
遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。
たとえついでにもうひとつ。
自動車で、ある目的地に向かう。これは人生のたとえ。
ガソリンが残り僅かだ。走行抵抗はできるだけ軽減させる必要がある。
走行抵抗…これが実にいろいろある。つまらない人との論争など。
そのほか、摩擦抵抗…自己認識において勇気の足りないこと。
真理探究には蛮勇が必要だ。
普通の勇気でなく蛮勇が。
たとえば、「シンデレラコンプレックスやピーターパンコンプレック(ネバーネバーランド)の呪縛から脱出して現実の世界(リアルリアルランド)に生きなければならない、たまに戻って英気を養うのは善いが節度を忘れずに」という学者の主張が真理だと思われている。
本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。
こういう微温的思想が真理であったためしはない。
もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネバーネバーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。
しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。
ユークリッド空間--リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間--ネバーネバーランド
幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。
ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。
蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。
これは自分の内面の課題だから、自分の覚悟次第でなんとでもすることが可能だ。
(過去記事統合編集)
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