真理探究には蛮勇が必要だ。
普通の勇気でなく蛮勇が。
たとえば、
「シンデレラコンプレックスやピーターパンコンプレック(ネバーネバーランド)の呪縛から脱出して現実の世界(リアルリアルランド)に生きなければならない、たまに戻って英気を養うのは善いが節度を忘れずに」
という学者の主張が真理だと思われている。
本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。
こういう微温的思想が真理であったためしはない。
もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネバーネバーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。
しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。
ユークリッド空間--リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間--ネバーネバーランド
幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。
ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。
蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。
生きとし生ける無数の存在の中で人間だけに与えられたかけがえのない宝。
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、大多数の人間ははかなく死んでいく。
古くなった車を買い換えるように、遺伝子に乗り捨てられて。
彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。
普通の勇気でなく蛮勇が。
たとえば、
「シンデレラコンプレックスやピーターパンコンプレック(ネバーネバーランド)の呪縛から脱出して現実の世界(リアルリアルランド)に生きなければならない、たまに戻って英気を養うのは善いが節度を忘れずに」
という学者の主張が真理だと思われている。
本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。
こういう微温的思想が真理であったためしはない。
もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネバーネバーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。
しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。
ユークリッド空間--リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間--ネバーネバーランド
幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。
ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。
蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。
生きとし生ける無数の存在の中で人間だけに与えられたかけがえのない宝。
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、大多数の人間ははかなく死んでいく。
古くなった車を買い換えるように、遺伝子に乗り捨てられて。
彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。
聖書に一つのたとえがある。
神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
というたとえだ。
(マタイによる福音書25,14~29)神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
というたとえだ。
この、神の金とは何か。
人間以外の生き物には与えられていない精神の自由のことだ。
遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。
遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしているものである。
自分を生かしている事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。
生物は遺伝子の支配下にあることを、人は片時も忘れてはならない。
このことに気づき、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけなのだ。
人以外の生きとし生けるものは、全くその可能性をもっていない。
人がそのことを忘れて
他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。
西洋思想は、人間と人間以外の存在を区別するのは当然とみなす。
これは正当なものなのだ。
この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄している論調を最近よく見かけるが、愚かしいことだ。
人間以外の生き物には与えられていない精神の自由のことだ。
遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。
遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしているものである。
自分を生かしている事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。
生物は遺伝子の支配下にあることを、人は片時も忘れてはならない。
このことに気づき、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけなのだ。
人以外の生きとし生けるものは、全くその可能性をもっていない。
人がそのことを忘れて
他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。
西洋思想は、人間と人間以外の存在を区別するのは当然とみなす。
これは正当なものなのだ。
この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄している論調を最近よく見かけるが、愚かしいことだ。
(過去記事統合増補編集再録)