哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

主張

 
真理探究には蛮勇が必要だ。
 
普通の勇気でなく蛮勇が。



たとえば、
シンデレラコンプレックスピーターパンシンドローム(ネヴァーネヴァーランド)の呪縛から脱出して現実の世界(リアルリアルランド)に生きなければならない、たまに戻って英気を養うのは善いが節度を忘れずに」
という学者の主張が真理だと思われている。


本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。

こういう微温的思想が真理であったためしはない。

もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネヴァーネヴァーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。

しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。


ユークリッド空間----リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間--ネヴァーネヴァーランド

幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。

ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。


蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。
 
 
これは自分の内面の課題だから、
自分の覚悟次第でなんとでもすることが可能だ。



生きとし生ける無数の存在の中で、
人間だけに与えられたかけがえのない宝。
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、
大多数の人間ははかなく死んでいく。

古くなった車を買い換えるように、
遺伝子に乗り捨てられて。

彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。

 

聖書に一つのたとえがある。

神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
 
というたとえだ。
(マタイによる福音書25,14~29)

 

 
 
この、神の金とは何か。






人間以外の生き物には与えられていない精神の自由のことだ。

遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。




 遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしているものである。

その偉大な能動的側面を見て「遺伝子は神だ」という者もいる。
そうなると、おれはバランスをとりたくなり「遺伝子は悪魔だ」という。

遺伝子のプログラムに支配され、殺し殺される修羅場を演じる自動人形(含人類)として、一生を終えるほかない、生きとし生けるものの惨状を


それぞれが生命を捧げあっている。大自然のなんと見事な秩序だろう

と人が認め、賛嘆までしてしまうのはなさけない。




この世は、遺伝子の支配下にある。

このことを、人は片時も忘れてはならないとおもう。
自分を生かしている事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。

もちろん遺伝子の働きを超えようとしても、つねにその裏をかくようにプログラムが何重にも作られているから、難しいが、あきらめたら、その時点で人は終わる。
なぜなら、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけで、他の生きとし生けるものは、全くその可能性をもっていないからだ。
人がそのことを忘れて


他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。


西洋思想は、人と人以外の存在を区別するのは当然とみなす。
これは正当なものなのだ。
この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄している論調を最近よく見かけるが、愚かしいことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 (My Favorite Songs)  

 

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