A・スマナサーラ長老 人の認識はあべこべです ~目指すべきは意識革命~より引用させていただきます。
知っていますか? 人々は本当に価値あるものに価値がないと思い、価値がないものに価値があると思う。評価すべきものは評価せず、批判すべきものを賞賛する。意味あるものは無意味だと思い、無意味なものに意味があると思ってしがみつく。
「私はそんなことはしていない」と思われるでしょうが、実はそうではありません。皆同じです。真理をありのままに知ることができるのは、悟りを開くときだけです。ありのままに物事を観て生活するのは、悟った方々です。悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallâsa)といいます。
すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。
このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。死にものぐるいで勉強して知識を得ても、金を儲けて財産を築いても、贅沢に溺れていても、死ぬときにはすべて捨てるのです。
生きているというプロセスは、持つ者にも持たざる者にも同じです。
持つ者には持つことで苦しみが生じ、持たざる者には期待で苦しみが生じます。
(引用終。文中の強調付加はわたしです。原文にはありません)
異議なし!!
…ただ…この素晴らしい法話と関係ない事をちょっと言わせて。
昔も今も
ひたすら生きんとする盲目の意志
が、大多数の人々の崇めてやまない神だ。
不滅の魂や大我や唯一絶対神やらはそのための道具に過ぎない。
世界のすべての宗教もとっくにその道具に劣化変容し終わってる。
「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、
人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、
見た目ピカピカの別物に見せてるに過ぎない。
理性は、盲目意志に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。
そこで、ブッダはすべての人を救うことはせず
私がしなかったことは、しなかったとせよ
と教えた。
その理由について、もうちょっと言う。
ほとんどの人達は、ただ日々を気楽に生きてければ満足だとする者だ。
「生きんとする盲目の意志」を全否定する無常・無我はもちろん、
死さえも、かれらは理解しない。
自分は死んでも生きてるとおもってる。
真理を過重に押しつければ、グレてファシズムに落ちてしまう。
最悪の結果をまねくだけだ。
だから、ブッダはすべての人を救うことはせず
私がしなかったことは、しなかったとせよ
と教えたのだと、おれはおもう。
(My Favorite Songs)
Vocals only 荒井由実 翳りゆく部屋
(過去記事編集再録)