佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その28」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube
〔感想〕
有能な人間は、例外なく、止(
止とは高度な精神集中のことだ。
まずこれを会得してる人がめったにいない。
しかも、
止は単なるスキルで、善にも悪にも使える。
止を手にした有能者の多くは、
善用の道を知らないために、
好き勝手に乱用し、たわいもなく悪に落ち、
かえって身を亡ぼす原因にさえする。
ありのままの自分を信じるとは、自分をそのままで放って置いてよいという意味ではない。
大多数の人間は、自分の身体や心がやりたがることを、自分がやりたいことと混同してしまう。そうするのが正直なのだと信じてるからだ。
俺実感、俺のもの実感は、
自然なことだが、
真実ではない。
自我(俺、俺のもの)は、人が世界を解釈し適応し生きるために必要なインフラとして自動作成されるように、人のDNAにプログラムされてるとおもう。(ブッダは、この自我プログラムに深刻な貪瞋痴バグがあると説いた)
その証拠に、すべての無垢な赤ちゃんは、物心つく前に、もれなく貪瞋痴に汚染された「俺・俺のもの」の落とし穴に落ちてしまう。
おもちゃを取れれた子が「ギャーッ」と叫ぶ。
あれは、おもちゃが欲しくて泣いてるんじゃない。
俺のものを盗った!!!
と怒ってるんだよ。
そして、
これを見た親達は皆嬉しそうに笑ってるからね。
親にも子にも、自然に愛されてる幻想の頑丈さ!
ブッダが発見した
無我という真理
は、生物一般の宿命的盲点になってる。
賢愚を問わず誰もが「俺」ほど確実な実感は他にないと思いこんでるから、
「俺、俺のもの」は錯覚だと言われたら「…あほか」と聞き流す。
ブッダは、アートマン(我)を立てることは愚か者のごまかしだと明言してる。
しかし人類は現在に至るまでアートマン(我)のいかに物凄まじい欠陥を見せつけられ続けても、これを捨て去ろうなどとは露程もおもったことがない。
なにしろ現人類は、貪瞋痴の苦しみを、夢中で楽しんでる真っ最中だからだ。
現代日本国民のように、ある程度教養のある大衆に、無我の事実を理詰めで認めさせることは一応可能なのだが、
その営為は往々徒労に帰す
だけでは済まず、恐ろしい結果を招く。
近頃、ブログでも、宗教系のyoutubeでも、無我を軽々しく扱う人が急増してる気がする。
「ああ無我でしょ。自我ってほんとは無いよって話。知ってますよ。わたしちゃんと理解してますよ」
と平気で言う人が出てきた。おれが若い頃ほとんどいなかったのに。
これは忌忌しき事態だとおもう。
なぜなら、こういう人は、
無我はわかっているのに、
欲望むさぼりのある人になる
という、ある意味最悪のゾーンに落ちやすいからだ。
日本はこの前の戦争中、滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする、醜怪な欺瞞が国中で
この悪夢が理論武装したバージョンアップ版でよみがえるだけだ。
自我という砂上楼閣の頑丈さよ!
ひたむきに生きんとする盲目の意志のひたむきさよ!
これはほんとにどうしようもないほどだ。
人類の実相は、まずこのアートマンプログラムに執着讃嘆する天文学的な長い時期を経てのちに、ようやく飽きて、ではブッダの教えも聞いてみようかいという気分に、ちょっとはなるかもといった心細いレベルだ。
(人類絶滅が先になる可能性高い)
それまでは、アートマンを、不死の魂、真我、大我、仏性と様々に呼び変えては隠し持ち、絶対に捨てない。
そして
唯一絶対宇宙創造人格神
がアートマンの最終形だ。
人は、生きるためのインフラとして偽造した自分意識(アートマン)に、今や逆支配され我欲の奴隷に落ちぶれてる。
そんな社会がすっかり爛熟期に入ると、一時的退廃を経て、アートマンの最終形たる唯一絶対宇宙創造人格神に関する祭祀や苦行に、内外呼応する益体もないハーモニーを感じて夢中になる。
アートマンを(魂、真我、大我、仏性、どんな名前で呼ぼうと)保持する社会は、爛熟するたびに何度でもこの唯一絶対宇宙創造人格神を見いだし、
「おお神様 神様 助けて パパヤー」
と掻い付き、祭祀と苦行の暗い穴倉に入る。
自我を捏造し、自我の都合ですべてのデータを改竄し、自我の化物である神にひれ伏す茶番の中で滅びる。
これを切りなく繰り返してるだけ。
ブッダは、それは人が陥る落とし穴だと教えてる。
さて、
以上の工程を、自力で歩き抜いた人は、
必定ヴィパッサナー実践をやる羽目になります。
しかし追い詰められて出した
「ヴィパッサナー頑張るぞ!」
のやる気も、毎回あっという間に消えてしまいます。
挫折の連続に絶望し、
もう何もかも投げ出したくなります。
なんでこうなるの。
それは、
不放逸(アッパマーダ)の意味を、
まったくはき違えてるからです。
ブッダの遺言は
怠ることなく精進せよ(=不放逸)
だった。
ブッダは常々「不放逸は不死の境地である。
放逸の人は死人に等しい」と説いた。
ブッダの「怠るな」が、とにかく何でもまじめに精一杯がんばれ、といったあやふやな指示ではないとわかるだろう。何事もさぼらず真剣にやるという普通のことが、不死の境地とはいえないからだ。
ブッダの不放逸は、
一般人が、日々の仕事を一所懸命真面目にやるとかいう意味では、まったくない。
一方、
昔から山奥に何十年も籠って、命も惜しまず修行に励む苦行者たちも、たいていブッダの不放逸から酷くずれていた。
血を吐くほど死に物狂いに日々仕事しても、あるいは山奥で独り真面目に修行しても、
そこに不断のサティがあれば不放逸となるが、サティがないときはただの煩悩でしかない。
正反対に見えるこの両者は、実は同じ精神状態なのだ。
仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけ。
何をしようと、サティがないなら、怠けてるのです。
これは、世の常識とは明確に違いますが、よくよく考えれば、人生最大の真理だと理解できるとおもいます。
という端的な指示だ。
苦諦は突き詰めれば、「死の観察」だ。
自分の死をしっかりイメージした瞬間、
この実感によって生じる特別なエネルギーが、
サティの持続を可能にし、
人は初めて
真に集中して修行できるからだ。
これ以外の方法では、あなたは
アーナーパーナサティも
ヴィパッサナーも
3分と続けられないからだ。
しかし、
世の大多数の人々は、
苦諦を蛇蝎の如く嫌ってる。
まして「死の観察」などは。
それを証するように現代社会では、
死は能う限り周到に隠されてる。
そのため彼らは、
善にして高度な集中力である
真の三昧スキル
をえらく欲しがってるくせに、
実際のところは、自分の意志で、
それを自分から遠ざけてるのだ。
(真実を無理に押し付けても、グレるだけなので、自身で気づくまでは、ブッダといえども、見守るしかない)
ブッダ入滅に立ち会った 当時の弟子たちは皆、 それをはっきり知っていた。 |
パティパダー巻頭法話No.287(2019年1月号)
「実らない修行と実る修行」
慢を避けて気づきに励む Love of self nullifies your practice
より引用させていただきます。
…放逸
パーリ語のpamādaは「怠ける」という意味でも使いますが、用語として使う場合は、「現実に気づかない(放逸)」という意味になります。眼の前の現実に気づかない場合は、その人のこころが現実離れの何かを思考・妄想しているのです。放逸の反対語は、「気づきsati」です。もし修行者が精神的な上達を期待しているならば、放逸は猛毒になります。気づきこそが、こころを成長させる唯一の手段なのです。…
ヴィパッサナー実践をする方々に、厳しく「実況中継」を課していることは、皆様方も知っているでしょう。「せっかく瞑想しようと思ったのに、実況中継とはなんなのか?
瞑想にならないのではないか?」という疑問も起きたことでしょう。実況中継とは、いまの瞬間に気づくための手段です。この方法でなければ、いまの瞬間に気づくことができなくなるのです。ブッダの瞑想を実践したいと思うならば、皆、気づき・実況中継こそが入り口であると理解しなくてはいけないのです。気づきがなければ、こころの成長も、解脱も成り立たない。…
思考・妄想を制御しようとするならば、捏造しないことに励まなくてはいけません。そのためには、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に執着しないで放っておく訓練が必要です。…
気づきsatiこそが、こころを清らかにする唯一の道です。私たちは、それを実況中継という手段で実践しています。人格向上も、こころを清らかにすることも、一切の煩悩を無くして解脱に達することも、気づきの実践で実現できるのです。
(以上。強調処理は私です)
悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ 中村 元訳 第2章第9節「耕 作 者」
より引用させていただきます。
(悪魔・悪しき者は、このようにブッダに語った)
修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?
心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。
(以上引用終)
対象
色声香味触法の六境(六外処)
感覚
眼耳鼻舌身意の六根(六内処)
六境六根合わせて十二処という。
対象と感覚が触れて生じる6種の
識別領域
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識
十二処とこの六識を合わせて十八界という。
十八界(六境六根六識)は、この世の一切を意味する。
したがって悪魔は、ブッダに
この世の一切はわたしのものだ。
誰一人わたしから脱れられない。
そなたも、どこに行こうと
わたしから脱れられない。
と脅してるのだ。
この世の一切が悪魔のものだということは、
(そのうえで、こうしたら悟れたという唯一の道を発見し、説き広めた)
言うまでもなく、悪魔もこれを認め、誇っている。
では、
いったい、だれが認めないのか?
悪魔の策略に気づきたくない、
世間の人々なのだ。
悪魔の支配下で絶えず苦しみながら、
その苦を愛し夢中になってる。
やがて必ず自分を殺す刺客を、
恋人のように慕ってるのだ。
彼らは
自分を信じてないから、
誰一人悪魔から脱れられない。
自分を信じられないのは、
心の底に恐れがあるのに、
それを不誠実な態度でごまかしてるからだ。
心の恐れを、ごまかさずにいられないのは
「人は死んでも、自分だけは死なない」
と思ってるからだ。
嘘を信じようと無理をするから、
自信がもてなくなり、
自灯明の人生を歩む
ことが根底的にできなくなってる。
病なんの処にか在る。
病は不自信の処に在り。
(臨済禅師)
「修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ」
と臨済禅師は断言してる。
釈尊の「自灯明」の重要さを説いてるのだ。
臨済禅師の「自信」といい、釈尊の「自灯明」といい、とてつもない奥行きのあることばだ。
自分を深く信じるためには、
自分に対して一切ごまかしがあってはいけない。
自分の心は自分ではない。
自分の心にごまかされないように、
よく注意すること(sati)が大事です。
憎む人が憎む人にたいして、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、
(ブッダの感興のことば31・9中村 元訳)
「人は死んでも、自分だけは死なない」
と邪な心は盲目的に渇望し、
自分を根底からごまかしてる。
この状態で、自分を信じることは不可能です。
母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
(ブッダの感興のことば31・10)
Dhammapada 法句経
1.
ものごとは心にもとづき、
心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で
話したり行なったりするならば、
苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2.
ものごとは心にもとづき、
心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で
話したり行なったりするならば、
福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。
ブッダのことば
比丘たちよ、
一切は燃えている。…
燃えている。
生まれることにより、
老いることにより、
死ぬことにより、
愁いにより、
悲しみにより、
苦しみにより、
憂いにより、
悩みにより
燃えている、
とわたしはいう。