哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

気づきsatiと忍耐堪忍は相関関係。気づきがエッセンス。

忍耐・堪忍と不放逸 スマナサーラ長老の初期仏教Q&A|ブッダの智慧で応えます(一問一答) - YouTube

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[感想]

気づきsatiと忍耐堪忍は相関関係

ですが、

エッセンスは気づきsati

です。

 

 

 

 

 

 ブッダの遺言は

怠ることなく精進せよ不放逸

だった。


ブッダは常々「不放逸は不死の境地である。
放逸の人は死人に等しい」と説いた。


ブッダの「怠るな」が、とにかく何でもまじめに精一杯がんばれ、といったあやふやな指示ではないとわかるだろう。何事もさぼらず真剣にやるという普通のことが、不死の境地とはいえないからだ。

ブッダの不放逸は、

たとえば一般人が、日々の仕事を一所懸命真面目にやるとかいう意味ではない。
それでは、ピントのずれが酷すぎて全く別物になってしまう。

 

一方、
昔から山奥に何十年も籠って、命も惜しまず真剣真面目にこころを清らかにしようと励む苦行者たちも、たいていブッダの不放逸から酷くずれていた。
一般人の精神状態と、厳しい行に人生をすり減らす求道者の精神状態のあいだに何も差がない」(結果がない)からだ。
 
 
つまり、
 
どれほど熱心に真面目に日々仕事しても修行しても、
サティがないなら怠けているのです。
 
サティがない時、
すべて放逸です。

 

ブッダ入滅に立ち会った

当時の弟子たちは皆、

それをはっきり知っていた。






ブッダの遺言「怠るな」は、
サティを怠るな
という意味だ。
「今ここ(瞬間の現在)」に気づき続けよ
という端的な指示だ。

 

 

パティパダー巻頭法話No.287(2019年1月号)
「実らない修行と実る修行」
慢を避けて気づきに励む Love of self nullifies your practice

より引用させていただきます。

…放逸
パーリ語のpamādaは「怠ける」という意味でも使いますが、用語として使う場合は、「現実に気づかない(放逸)」という意味になります。眼の前の現実に気づかない場合は、その人のこころが現実離れの何かを思考・妄想しているのです。放逸の反対語は、「気づきsati」です。もし修行者が精神的な上達を期待しているならば、放逸は猛毒になります。気づきこそが、こころを成長させる唯一の手段なのです。…

ヴィパッサナー実践をする方々に、厳しく「実況中継」を課していることは、皆様方も知っているでしょう。「せっかく瞑想しようと思ったのに、実況中継とはなんなのか?
瞑想にならないのではないか?」という疑問も起きたことでしょう。実況中継とは、いまの瞬間に気づくための手段です。この方法でなければ、いまの瞬間に気づくことができなくなるのです。ブッダの瞑想を実践したいと思うならば、皆、気づき・実況中継こそが入り口であると理解しなくてはいけないのです。気づきがなければ、こころの成長も、解脱も成り立たない。…

思考・妄想を制御しようとするならば、捏造しないことに励まなくてはいけません。そのためには、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に執着しないで放っておく訓練が必要です。…

気づきsatiこそが、こころを清らかにする唯一の道です。私たちは、それを実況中継という手段で実践しています。人格向上も、こころを清らかにすることも、一切の煩悩を無くして解脱に達することも、気づきの実践で実現できるのです。

 

今回のポイント

  • 慢は慢性疾患
  • 思考・妄想は成長の障害
  • 言葉の沈黙よりもこころの沈黙が大事
  • 気づきは解脱への門

(以上。強調処理は私です)

 

 

 

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること