哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

どんなことにも、必ず終わりは来る。その日のために鍛えておこう。

 

明けまして
おめでとうございます。
今年もよろしく
お願いします。






先ほど、年越しそば食べてから、近所の神社のかがり火にあたってきました。
晦日⇒元旦は毎年同じ過ごし方です。

 

 

 

 

 

 

 

 一休さんが元旦を詠った有名な短歌



 

        門松は冥途の旅の一里塚

        めでたくもありめでたくもなし

 
 
(スマナサーラ長老著「死」は幸福のキーワード: 「死隨念」のススメ より引用させていただきます)
 世の中では、「死」というと何か不吉なもの、恐いもの、不幸なものというとらえ方が一般的だと思います。仏教はまったく反対です。「死」という単語自体、幸福のキーワードなのです。「死」は幸福、これはもう紛れもない事実だとするのです。お釈迦様は、出家に「死を観察しなさい」とおっしゃいました。日本語では死随念(「死の瞑想」)と言います。「どんな生命でも死ぬ」ということを、自分なりに観察するのです。本書では、この「死随念」の考え方と実践方法を詳しく解説します。皆さんも、幸福な人生のために、日々の生活の中で、理性に基づいて、しっかりと「死の観察」をしてみてください。(以上)

(パティパダー巻頭法話No.234より引用させていただきます)
 ひとは誰でも、死ぬのは怖いのです。死にたくはないのです。決して叶わない希望なのに、その希望を捨てがたくて苦しむのです。心は決して成長しないのです。それなら勇気を出して、「生命たるものは皆、必ず死ぬのだ」と死を観察するのです。死随念と言います。
ニコニコ動画死の瞑想(死随念)スマナサーラ長老

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プッタタート編訳「ブッダの言葉の宝庫」より
死に関して迂闊でない人
を要約して引用させていただきます。原文はリンクを参照してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある時、ブッダが比丘達に、大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「どのように実践しているか」と訊ねました。

比丘A 「今日だけ、今晩だけの命かもしれないと思い修行に励みます」

比丘B 「昼の間しかない命かも知れないと思い修行に励みます」

比丘C 「托鉢して食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘D 「ご飯を四、五口食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘E 「あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励みます」


ブッダは、比丘A、B、C、Dは「まだ不注意な人」「まだ漏の滅尽を遅らせるためにマラナサティをしている」と言い、比丘Eだけを「油断のない人」「本当に漏を滅すためにマラナサティをする人」と褒めました。
(要旨引用終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大きな功徳があるマラナサティ(死について思うこと)の正しい実践とは

 

 

 

 

 

 

 

 

あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励む
 
ことです。

 

 

これは、
無理にこう思えと
勧めてない。
 
微塵も誇張表現を含んでない。
 
命ははかないという事実を
そのまま言っているだけだ。
 
これ以外の態度
「今日だけ、今晩だけの命かもしれない」
「昼の間しかない命かも知れない」
「托鉢して食べ終わるまでの命かもしれない」
「ご飯を四、五口食べ終わるまでの命かもしれない」等
の隙間のある思いで修行に励んでも、全て注意不足であるため、いくら長くやっても真の結果は得られないからだ。

 

 

 

 

 もう一度言う。
これは厳しいとか難しいとかいうことではなく、誇張でもなんでもなく、ただ事実は正確にこうだよと親切にブッダが教えてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、カンポン・トーンブンヌムさんの気づきの実践は比丘Eのようで「死に関して迂闊でない人」だったので、はっきり結果を出すことができた。

比丘A、B、C、Dのように注意不足でいくら長くやっても何も結果は得られない。

やるならたとえ短くても、比丘Eのように、カンポンさんのように、少しも油断なくやる必要がある。


 現状、比丘Aの真似さえ難しい人が大多数なのは、苦聖諦の理解が足りない
からだ。だからまず、苦聖諦を学ぶ必要があるとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちなみに、 瑩山禅師・坐禅用心記

        「一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐」

の教えの大元は、このブッダの死随念説法

        「死に関して迂闊でない人」

にあるとおもう。

 

 

  元旦に縁起でもない、しかし一休禅師を見習ったつもりの

        門松は冥途の旅の一里塚

的話でした。

 

 失礼しました。