釈尊の説法(サンユッタ・ニカーヤ)に、
ある夫婦が可愛い一人息子と共に
荒野の道を行く
という話がある。
これは人生のたとえだ。
途中で手持ちの食料が尽き「三人とも死んではならない」と考えて、一人息子を殺して食べ、荒野の残りを越え渡ることができたと。
この世の食べ物は、まさしくこの一人息子のように見るべきだと。
食べ物は戯れ、嗜好、愛着、容色などのために食べるべきではなく、ただ荒野を越え渡るために食べるべきものだと。
放逸な無駄食いが日常のおれには、想像を絶する一種異様でさえある教えだが、しかも、こんなのはまだ説法の出だしに過ぎない。
四種の食が順次に説かれ、最終的に『識別作用から生じる食』をどう見るべきかに話が及ぶのだ。
よくよく読めば、真実その通りだとおもう他ない明晰深遠な説法だとおもう。
実践的には、おれは話のしょっぱなでつまずいており、先に進めないのだが。
⇒「初期経典の「四種の食」(cattāro-āhārā)について」.pdf
心にしみる原始仏典 子の肉(『サンユッタ・ニカーヤ』12.63)
より該当部分を引用させていただきます。
5.比丘たちよ、たとえば、夫婦二人が、わずかの食糧をたずさえて、曠野の道を出かけるとしよう。かれらには、可愛い子供が一人いる。
6.さて、比丘たちよ、曠野を行くかれら夫婦二人には、わずかの食糧しかなかったので、それらがすっかり尽きてなくなったまま、行かねばならないだろう。かれらには、曠野の残りを越えていくことはできないだろう。
7.さて、比丘たちよ、かれら夫婦二人には、このような(思い)があるだろう。 「わたしたちにあるわずかな食糧は、すっかり尽きてなくなってしまった。この曠野の残りを越えていくことはできない。わたしたちは、この可愛い一人息子殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、それを食べるほかには、曠野の残りを渡ることはできないだろう。三人ともみな死んではならない。」
8.さて、かれら夫婦二人は、この可愛い一人息子を殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、これを食べて、曠野の残りを越え渡るだろう。かれらは、子の肉をすっかり食べて、そして、胸を打ってたたいて(嘆く)だろう。「一人息子はどこだ、一人息子はどこだ」と。
9.比丘たちよ、このことをどう思うだろうか。かれらはたんに戯れのために食べ物を食べるのであろうか。それとも、嗜好のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、愛着のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、容色のために食べ物を食べるのだろうか。
そうではありません。尊師よ。
10.比丘たちよ、かれらは、ただひたすら曠野を越え渡るために、食べ物を食べるのであろう。
そうであります。尊師よ。
11.比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように丸めた食べ物は見るべきである、というのである。
比丘たちよ、丸めた食べ物が、あまねく知られるとき、五種の欲※を特徴とする貪欲があまねく知られるのである。五種の欲を特徴とする貪欲があまねく知られるとき、結縛に結びつけられて聖なる弟子がこの世に再びもどってくるような、そのような結縛は、もはやない。
※ 五種の欲とは、色・声・香・味・触に対する欲のことである。
(以上、引用終)
(My Favorite Songs)
アル・ウィルソン。
「ザ・スネイク」
フィフス・ディメンション。
「ビートでジャンプ!」
B・J・トーマス
「雨に濡れても」
(過去記事統合増補編集再録)