次は五祖弘忍、その次は四祖道信ですが、ぜんぜん知りません。
もっとも、たいして知る必要もないかもしれません。
馬祖道一・石頭希遷より前はすべて嘘混じりの神話の類に過ぎないらしいからです。
下の動画は、花園大学名誉教授沖本克己先生による「禅宗史」講義ですが、聴いて少なからずショックを受けました。
いや昔からチラホラうわさ話のように耳に入って、信じたくない気持ちがあり曖昧なまま過ごし、改めてやっぱりほんとだったかと。
大好きな六祖壇経も三祖信心銘も、語録のみならずその人物の存在すらほぼ後世のねつ造とは、切ない話で、人間の嘘をつく能力の信じがたい高さに驚嘆しますわ。
すでに大乗経典や聖書等の成立過程のいいかげんさから、人間はいつの時代もどこの国でも骨髄からの大ウソつきだと知ってるつもりだけど……。
正に知ってるつもりで分かってなかった。
沖本先生は、嘘の神話も大事ですと大人の対応を勧めてますが、危うい話ですよ。頼りない話ですよ。
ブッダは
たとえたわむれにでも決して嘘をついてはならない。
嘘をつくというたった一つの罪を犯す人に犯せない罪はない。
と教えてます。
…とはいえ、三祖僧璨の「信心銘」は澤木興道老師が愛したもので、おれも好きなのでちょっとだけ紹介します。
至道無難唯嫌揀擇
但莫憎愛洞然明白
毫釐有差天地懸隔
(試訳)
悟ることは簡単だ。
えり好みさえしなければいいのだ。
憎悪や愛着を起こさなければ、
世界はなんの問題もない。
しかし、最初髪の毛1本ほど間違うと、
最後には天と地ほど離れてしまう。
さて、法系を順にさかのぼるのは、このへんで止めておきます。
まぎれもなく天才達の手になる絢爛華麗な名作文学ですが、嘘と分かってつきあうのは、正直もうきついです。
だって、文学的大天才達が束になって営々挑んだのに、
肝心のサティとヴィパッサナーの真実
にだけは届かなかった
というつまらないオチが、作り話の限界を示してるからです。
でもまあ「なんかおもしろい禅問答があったら、おしえてください」とリクエストしてもらったので、これからはランダムにですが、もうちょっとだけ続けようとおもいます。
次の問答なんか、ちょっとおもしろいと思います。
僧あり。趙州和尚に問う。
「一物不将来の時如何?」
(わたしはこだわりを一つも持っていない。
どうです?悟りの境地と認めますか?)
趙州曰く
「放下着!」
(捨ててしまえ!)
僧曰く
「一物不将来、箇の何をか放下せん?」
(すでに何も持っていない。
いったい何を捨てろというのか?)
趙州曰く
「恁麼ならば担取し去れ!」
(そんなに大事なら、背負って帰れ!)
これを鉄眼禅師が解説して、
一物不将来と質問できるこの僧は、すでに無念無心の高い境地に至っている。
しかし、(これで自分は悟ったぞ)と思って、趙州に問うている。
趙州はそれが病だと知って、このように答えたのだ。
この「放下着」を自分のものにできれば、初めて本当の悟りに至り、趙州と相まみえることができよう。
よくよく工夫して、この境地にまで至らなければならぬ。
…あやまって野狐の窟に入ってはいけない。
(鉄眼禅師仮名法語より該当部分抜書試訳)
また鉄眼和尚はこの質問した僧の心の状態を以下のように説明しています。非常に親切です。
「善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空の如く、とぎたる鏡を台にのせたるが如く、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのすずしきこと、たとえていふべきやうもなくおぼゆる事あり。これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。これを禅宗にては打成一片といひ、または一色辺といひ、大死底の人ともいひ、普賢の境界ともいふ。かようのことしばらくもあれば、初心の人ははやさとりて、釈迦、達摩にもひとしきかとおもへり。これ大なるあやまりなり。」
これは、日の出前の薄暗い状態で、まだ太陽(真の悟り)は現れていない。ここで満足してしまうと暗い野狐の窟に入って出て来れなくなる。
と鉄眼和尚は教えている。
目の前にある最後の深くて暗いクレバスを勇気出してジャンプで越えなければならない。
(過去記事統合増補編集再録)