哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

修行衰退の原因

 
河を流れる丸太に修行者を例えた、ブッダの有名な説法がある。

 

 

ターン・プッタタート パーリ三蔵より パーリ・ブッダバーシタ 相応部サラーヤタナヴァッガ 三蔵18巻23頁322項

 

 

 

海まで下る丸太
(文中、スガタは「善く行った者。善逝」の意味でブッダのことです)
 比丘のみなさん。みなさんはガンガ(ガンジス川)に浮かんで、海に流れ着く大きな丸太を見たことがありますか。

「見たことがあります、スガタ様」比丘全員が答えました。

 比丘のみなさん。その丸太が、内の岸、外の岸に引っ掛からず、水中に沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に盗まれず、渦に揉まれず、途中で自然に腐らない丸太は、浮いて流れて海に突入します。ガンガは海に傾き、海に傾斜し、海に注いでいるからです。

 比丘のみなさん。みなさんも内の岸にも外の岸にも引っ掛からず、真中で沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に盗まれず、渦に揉まれず、途中で自然に腐らなければ、みなさんは涅槃に流れていきます。正しい見解は涅槃に傾き、涅槃に傾斜し、涅槃に注いでいるからです。



 話終わると、一人の比丘が「スガタ様。内の岸、外の岸とは何ですか。真中に沈むとは何のことですか。陸に引っかかるとは何のことですか。人間に捕まるとは何ですか。人間に盗まれるとは何ですか。渦に揉まれるとは何ですか。途中で自然に腐るとは何のことですか」と質問しました。



 比丘のみなさん。『内の岸』とは六内処入で、『外の岸』とは六外処入で、『真中に沈む』とはナンディラーガ(欲の喜び)で、『陸に引っ掛かって乾く』とはアッサミマーナ(私がいるという理解)です。

『人間に捕まる』とは、この場合は在家と交わる比丘で、一緒に楽しみ一緒に悲しみ、これらの在家が幸福な時は幸福で、それらの在家が苦の時は苦になり、それらの在家に生じた仕事を自分の仕事にします。この比丘を私は人間に捕まった比丘と言います。

『人間に盗まれる』とは、この場合のある比丘は、「この戒で、この勤めで、あるいはこの苦行で力のある天人になる。あるいは力のない天人になる」と、このように何らかの天人衆になることを望んで梵行をします。この比丘を私は、人間に盗まれたと言います。『渦に揉まれる』とは、五欲(性欲)のことです。

 『途中で自然に腐った』比丘とは何でしょうか。この場合の比丘は、破戒者であり、下賤な生き方をし、不潔で、自分でも自分を疑うような振る舞いがあり、隠しておかなければならない行動があり、サマナではないのにサマナだと言い、梵行をしていないのに梵行をしていると宣言し、内部がドロドロに腐って、ゴミ捨て場のように積もった本性があります。

 この比丘を私は、途中で自然に腐ってしまった人と言います。
[引用終]

 

 

 

 

 

 

 

おれが今回特に注目したいのは、
『人間に捕まる』とは、この場合は在家と交わる比丘で、一緒に楽しみ一緒に悲しみ、これらの在家が幸福な時は幸福で、それらの在家が苦の時は苦になり、それらの在家に生じた仕事を自分の仕事にします。この比丘を私は人間に捕まった比丘と言います。
の部分だ。

 

 

 

 

 

 

 

念のため、世界の名著1『バラモン教典・原始仏典』 (責任編集 長尾雅人)の訳で同じ個所を確認しておく。
 比丘よ、人がもち去っていってしまうというのは、どういうことなのか。比丘よ、この世の中では、家庭をもった者が互いに社会をつくって住み、喜びをともにし、悲哀をともにし、種々の楽しいことにあたって楽しみ、種々の苦しいことにあたって苦しみ、(いっしょに住むことによって)生じてくる種々の義務に対しては、自らそれに参加する。比丘よ、これが人によってもち去られることなのである。(長尾雅人・工藤成樹共訳)
となっている。

 

 

 

 意味は極めて明瞭だ。ブッダはいつもこういう風にズバッと核心を突く。

このブッダの教えを次第に守らなくなった弟子たちによって仏教は衰退し、あるいは名前だけ残って中身が別物になった。

たとえば、
「一切衆生病めるを以て、是の故に我病む。…衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ」といった
維摩経の菩薩観
このイメージに後世、さらに加上した(=人の隠れた欲を投影しエスカレートさせた)ものとして、
人々と苦しみを共にし救うために、死んでもまたこの世へ還って来る菩薩、といった
曇鸞還相回向

この「死んでもまたこの世へ還って来る」ところが、人の隠れた欲です。

これらは優れた文学であって、ブッダの教えとは別物だとおもう。すなわち「さとりに向かい、さとりに流れ込み、さとりに入っていくことに」ならない。

 

 

 

 ブッダの教えは究極真理。
それに加上すれば、すなわち必ず(発展、改良、革新、向上、新機軸という美名の下)修行の衰退が起きた。

 

 

 

 

 

 

 

〔同日追記〕
 今年1月4日の〔追記〕にこう書いた。
 

正月休み、なんの用事もなく、誰も来ず、勧誘電話1本かかってこない。呼吸瞑想を集中的に試みたいおれにとって都合のいい環境だった。ところが今日はおもわぬ野暮用が発生した。

具体的に書けないが、他人から見れば些細な組長仕事だ(おれは今期町内の組長当番)。

……………………

おれにとって呼吸瞑想を試みることさえ困難になる時間は、理不尽に奪われ無体に盗まれてしまった時間だ。

(以上)

 

「世間一般には理解されにくいこの気持ち」について、昔ブログで書いた気がしたが、この時は具体的に思い出せなかった。

後で調べたら、それがこの記事だった。

(初出は 2013-04-06人間に捕まる修行者とは」)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)
マイケル・ジャクソン
「ビリー・ジーン」

 

 
 
 
 
プリンス。
「レッツゴー・クレージー

 

 
 
 
 
 
 
ソウルコーラスグループの王者、テンプテーションズ
「マイ・ガール」

 

 
 
 
 
(過去記事統合増補編集再録)