哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

意図しなくてもダンマはダンマに流れて行く

ブッダの言葉。
ターン・プッタタートHPより「誰も意図しなくてもダンマはダンマに流れて行く」増支部ダサカニパータ 24巻336頁209項
 比丘のみなさん。完璧な戒があれば、「アヴィパティサーラ(悔恨がないこと)が私に現れるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。完璧な戒があれば、後悔することがないのは当たり前です。

 比丘のみなさん。悔恨が無ければ、「歓喜よ生じろ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。後悔がなければ、歓喜が当然生じるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。歓喜すれば、「喜悦よ生じろ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。歓喜すれば、喜悦が当然生じるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。心に喜悦があれば、「体よ静まれ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。喜悦があれば、体が当然静まるのは当たり前です。

比丘のみなさん。体が静まれば、「幸福を味わおう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。体が静まれば、当然幸福を味わうのは当たり前です。

比丘のみなさん。幸福があれば、「心が安定してサマーディになれ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。幸福があれば、当然心が静まってサマーディになるのは当たり前です。
比丘のみなさん。心が安定してサマーディになれば、「真実のままに知るよう、見えるよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。心が安定してサマーディになれば、当然真実のままに見えるのは当たり前です。

比丘のみなさん。真実のままに知り、見れば、「倦怠しよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。真実のままに知り、見れば、当然倦怠するのは当たり前です。

比丘のみなさん。倦怠すれば、「欲情を緩めよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。倦怠すれば、当然欲情が緩むのは当たり前です。

比丘のみなさん。心の欲情が緩めば、「解脱智見を明らかにしよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。心の欲情が緩めば、当然解脱智見を明らかにするのは当たり前です。

 比丘のみなさん。このような状況で、ヴィラーガ(離欲)には当然目指す功徳である解脱智見があり、ニッピダー(厭離)には、当然目指す功徳である離欲があり、解脱智見には、当然目指す利益である厭離があり、サマーディには、当然目指す利益である解脱智見があり、スッカ(幸福)には、当然目指す利益であるサマーディがあり、パッサッティ(軽安)には、当然目指す利益である幸福があり、ピーティ(喜悦)には、当然目指す利益である軽安があり、パモーダヤ(歓喜)には、当然目指す利益である喜悦があり、無悔恨には、当然目指す利益である歓喜があり、善である戒には、当然目指す利益である無悔恨があります。

 比丘のみなさん。このように、ダンマは当然ダンマに流れて行き、ダンマは当然、岸でない所(輪廻)から岸(涅槃)に到達するためにダンマを満たします。

註: 学習者は、私たちは行動を正しくしようと意図するだけで、その行動が結果を出すよう意図する必要はないと観察して見なければなりません。それ(意図すること、あるいは期待)はイライラソワソワするものであり、無用な苦もあります。ほとんどの人がこの点を誤解しているので、苦に耐えながら仕事をし、あるいは精神の病気になります。この原則は世俗のことにもダンマのことにも応用できます。縁起の流れの結果を生じさせる原因にも、このような巌とした原則があります。
(太字強調はわたしです)

 




 いつも目指す利益から逆算した行動をしようとするから、心配事が尽きず余裕がなくなり疲労困憊する。最も大切な「今・ここ」(守正念)が抜けてしまう。

もし今、ひとつの行動が正しくできれば、最初からその行動で生じる一切の結果を心配する必要がない。最良の結果になるのは当たり前だからだ。
欲が邪魔するから易しくはないが、これができれば、雑用心から解放され余裕があるので「今・ここ」が可能になるとおもう。