哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

神仏と大衆の間で玉虫色になる専門家たち

ウィキペディア(常楽我浄)より引用させて頂きます。
 

無常なものに常をいだき、苦であるものに楽をいだき、無我なものに我をいだき、不浄なものに浄をいだく。
衆生らは、邪見によって心乱され狂わせられる、マーラにとらわられた安楽なき人々である。

—パーリ仏典, 増支部四集赤馬品, 顚倒経, Sri Lanka Tripitaka Project

 
 
 
 
以前テレビで、仏教や神道キリスト教に関する国民の疑問に、僧侶や神主や牧師が答える番組を見た。

 

 

 

確固たる神仏の教えが一方にある。

他方、大衆には、神仏の教えがこうあってほしい、のみならず、こうでなければ容認しないというマーラにとらわられた頑固な意向がある。

 

国民の税金や信者の援助によって維持されてる寺や神社や教会の経営責任者スタンスの一面を持つ者達が、この間に挟まれて、苦し紛れに発明した、国民大衆の意向を全面的に是認しながらも、神仏開祖の教えにも反しないふう玉虫色の伝統折衷案というものがこの世には存在する。
その伝統折衷案のかずかずが、番組の中で披露されてく。
注意深く巧みになされた「賢い」解釈と説明の百花斉放を聞いて、これは皮肉で言うのじゃなく、心底感心した。

しかし、この種の賢さはいくら極めても、肝腎の悟りや救いの為に何の貢献もしないのが事実だとおもう。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)  
 
(過去記事増補編集再録)