昔、職場で
「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する人間は最低だ!」
と怒ったことがある。
周りの反応は鈍いものだろうと、言う前から予想はついたが、それでも言ってしまうときもあった。
武田邦彦先生のエッセイ「何を言った」より「誰が言った」という社会は、正にわが意を得たりの内容。
ぜひ聴いてください。一人二人でも聴いて理解すれば、(武田先生が言われるように)その分だけ世の中にいやらしさが減って、明るさが増えるとおもうので。
この問題を、
ひろゆきさんがちょっと別の角度から言ってる。
(冒頭3分半ほどの話)
「物事を、偉い人がどう言ってるかを集めて理解する」
これを素でやってる人達。多い多い。やんなるほど多い。
物事自体に直接向かい合いその仕組みを知ろうとは一切せず、権威者達の大筋見解に自分をとっとと適応させて、それで知ったつもりになる。
「この理解の仕方違うでしょ」って、いくら注意したってわかりゃしない。
不誠実極まりないのに、これの何が問題なのかさえ、チンプンカンプンな輩。
もうすっかり突き放して、
ひろゆきさんや堀元 見さんのように
面白がるしかないのかも。
しかし、
これに関して他人を怒る資格がおれにないことに、
以前NHKのドラマ「TAROの塔」を観た時、気づいた。
その後(再放送だったとおもうが)NHK Eテレ「先人たちの底力 知恵泉 岡本太郎 万博への道」を観て、あらためてそのことを思い返した。
もう何十年も前になるが当時おれは、岡本太郎が万博プロデューサーを引き受けたニュースを聞いて、わけもなく軽蔑感をもった。
この記憶は今でもはっきりしてて、思い出すたびに苦い味がするので困る。
おれは、
自分で調べ考え判断する代わりに、まわりの空気を読み、はしこく適応して済ます獣的人間
の一人だったってことだ。
要領よく立ち回って、楽して得していると思い込み、その実
邪な心は自分自身に仇のようにふるまう
というブッダの言葉通りに、自分で自分を傷つけ、自分で自分を滅びへと追い立ててる。
何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断するというのもそういうことで、おれも同じことをしてた。
おれはブッダの教えを学んでる。
しかし、いまだにこの種の獣性から縁が切れないでいる。
記憶が苦いのはそのせいだ。
(My Favorite Songs)
エリックバートン。
Eric Burdon & The Animals - When I Was Young (1967) ♫♥ - YouTube
(過去記事再録)