哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

世の中を暗くいやらしくする獣的人間

 

 昔、職場で
「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する人間は最低だ!」
と怒ったことがある。
 
周りの反応は鈍いものだろうと、言う前から予想はついたが、それでも言ってしまうときもあった。

 


 武田邦彦先生のエッセイ「何を言った」より「誰が言った」という社会は、正にわが意を得たりの内容。
ぜひ聴いてください。一人二人でも聴いて理解すれば、(武田先生が言われるように)その分だけ世の中にいやらしさが減って、明るさが増えるとおもうので。


◆武田邦彦:「何を言った」より「誰が言った」という社会

 

この問題を、

ひろゆきさんがちょっと別の角度から言ってる。

(冒頭3分半ほどの話)

 

物事を、偉い人がどう言ってるかを集めて理解する

これを素でやってる人達。多い多い。やんなるほど多い。

 


物事自体に直接向かい合いその仕組みを知ろうとは一切せず、権威者達の大筋見解に自分をとっとと適応させて、それで知ったつもりになる。
 

「この理解の仕方違うでしょ」って、いくら注意したってわかりゃしない。

 


不誠実極まりないのに、これの何が問題なのかさえ、チンプンカンプンな輩。

 


もうすっかり突き放して、

ひろゆきさんや堀元 見さんのように

面白がるしかないのかも。

 

 

 


 しかし、

これに関して他人を怒る資格がおれにないことに、

以前NHKのドラマ「TAROの塔」を観た時、気づいた。

 


その後(再放送だったとおもうが)NHK Eテレ先人たちの底力 知恵泉 岡本太郎 万博への道」を観て、あらためてそのことを思い返した。


 


もう何十年も前になるが当時おれは、岡本太郎が万博プロデューサーを引き受けたニュースを聞いて、わけもなく軽蔑感をもった。


この記憶は今でもはっきりしてて、思い出すたびに苦い味がするので困る。

おれは、
自分で調べ考え判断する代わりに、まわりの空気を読み、はしこく適応して済ます獣的人間
の一人だったってことだ。
 

要領よく立ち回って、楽して得していると思い込み、その実

邪な心は自分自身に仇のようにふるまう

というブッダの言葉通りに、自分で自分を傷つけ、自分で自分を滅びへと追い立ててる。


何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断するというのもそういうことで、おれも同じことをしてた。


おれはブッダの教えを学んでる。


しかし、いまだにこの種の獣性から縁が切れないでいる。

 

記憶が苦いのはそのせいだ。



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(My Favorite Songs)

エリックバートン。

Eric Burdon & The Animals - When I Was Young (1967) ♫♥ - YouTube


(過去記事再録)