小原克博「世界大戦のただ中から(3)── D. ボンヘッファー」(講義「現代神学」第4回、同志社大学) - YouTube
を引用させていただきます。
知識の探求に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、わたしには分かった」と言う時、それこそ結論なのであるが、しかしそれは、こういう言葉が自分の怠惰を正当化するために最初の学期に学生によって使われる場合とは全く違う(キルケゴール)。その言葉は
結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。
〈引用終。強調は私です〉
「すでに救われてる。このままで初めから悟ってる」が大衆の妄想になってる現代。
イスラム大詩人ルーミーの一節に
神の部屋に入りたくて、ドアを必死で叩き
「開けて!開けて!」と泣き叫んでいたが、
ふと気づくと自分は初めから部屋の中に居た。
みたいな意味の詩がある。
これは、大乗仏教やヒンズー教やキリスト教の「本来本法性天然自性身」「梵我一如」「あなたはありのままで神様に愛され救われています。あなたはこれを信じるだけで良いんですよ」と同じバカ話のイスラム版だ。
おれはルーミー等が
一概に嘘を言ってるとはおもわないが、
結論としては真理であるが、(智慧)
前提としては自己欺瞞である(知識)
智慧知識問題に、まったく顧慮しない点で、
犯罪レベルのミスリードを
(結果として)犯してるとおもう。
ブッダはそういうネタバレ話を推奨しなかった。お前も我慢すべきだろと言いたいだけだ。
自分の怠惰を正当化するために
最初の学期に学生によって使われる
大衆レベルの妄想に劣化してる
現代ではなおさらだ。
なぜ呼吸瞑想や坐禅をするのか。
結論としては真理だが、
前提としては自己欺瞞になる
[智慧知識問題]
を、なんとしても解決する必要があるからだ。
禅には有名な
十牛図
の教えがある。
おれは最初一通り聞いたとき、
さんざん苦労して悟ったら、元の状態に戻ってた
という話だと受け取った。
「なんだ、それ。やらなくてよい苦労をして、馬鹿じゃん」
と、おもったものだ。
これは、当時のおれに
智慧と知識の大違い
がまるで分ってなかったからだ。
聖書にも、文脈は違うが、なんとなく十牛図を連想する教えがある。
心を尽くして知恵に近づき、
力を尽くして知恵の道を歩み続けよ。
足跡を追って、知恵を探せ。
そうすれば、知恵が見つかるだろう。
しっかりつかんだら、それを手放すな。
ついには、知恵に憩いを見いだし、
知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。
(シラ書6・26~28 新共同訳)
聞いて分かった気になっても、それは知識にすぎない。
貪瞋痴は知識で分かっても消せない。
修練で体得する智慧によってはじめて消せる。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
(ヤコブの手紙1・22より)
同じ教えを、イエスの言葉のほうは、優しい揶揄が含まれていて、余裕を感じさせる。
今の時代を何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
(マタイによる福音書11・16,17 新共同訳)
大多数の人々は、智慧の教えを聞いて、情報として記憶して終わる。
あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
(同11・7,8より)
知識は、
人がそれによって知ったかぶりになると
自滅させる危険物なのだが、
修練で智慧に育てると、得難い益となるものだ。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(My Favorite Songs)
【英語】Lovin’ You (日本語字幕) - YouTube
(過去記事統合編集再録)