哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人生はすごく短い。やるべきことに優先順位がある。

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犬が人間の寿命について研究するような感じなんです。

スマナサーラ長老)

 

 

 

ブッダは、人を解脱に導くために

説くべきことを余すことなく完全に説き、

説く必要のないことは一切説かなかった。

 

 

 

ブッダの無記

世界は永遠であるのか
世界は永遠でないのか
世界は有限であるのか
世界は無限であるのか
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
如来は死後存在するのか
如来は死後存在しないのか
如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

以上、十無記という。




これらの議論を、有害無益であると明確に制止したところに、人類の慈父・ブッダの比類なき知恵と慈悲が現れてる。

これらの問題は、どうにでも考えられる、というレベルから出ることができない。

限りある貴重な修行時間の徒費という致命的な結果をまねくだけだ。

 

十無記は、

世界に比類なく勝れたブッダの教えです。

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(中部第63 小マールンキャ経 毒矢のたとえ 桜部健訳より引用させて頂きます)

ブッダの言葉。

 人は死後存在するという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなことはない。 …


人は死後存在しないという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなこともない。



人は死後存在するという考え方があろうと人は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。
現実にそれらを制圧することをわたしは教えるのである。




わたしが説かないことは説かないと了解せよ。

わたしが説くことは説くと了解せよ。





何ゆえにそれ
[人は死後存在するか否かなどの問題]をわたしは説かないか。…

これは目的にかなわない。
修行のための基礎となるものではない。 
世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩ぼんのうの消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だたない。

このゆえにそれをわたしは説かない。




これは苦であるとわたしは説く。
これは苦の生起する原因であるとわたしは説く。
これは苦の消滅であるとわたしは説く。
これは苦の消滅に進む道であるとわたしは説く。…



何ゆえにそれをわたしは説くか。…


これは目的にかなう。
これは修行のための基礎となる。
これは世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつ。

このゆえにそれをわたしは説く。

(引用終)











 





 

 

わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。

に関して、ブッダの「森の落ち葉のたとえ」があります。

スマナサーラ長老法話をお聞きください。⇒22分40秒辺り


理性ある人の選択――危機に瀕した人類が目指すべき勝利|スマナサーラ長老の初期仏教法話

 

 

人生はすごく短い。

ものごとには優先順位がある。

まずこれをやる。次にこれと。

宇宙がどうしたとか言っとちゃいかん。

 

 

 

あ、それから、ブッダの二つの教え。

わたしが知っていて説かないことは山ほどあるが、私が説かないことは説かないと了解せよ。

わたしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。

の間に、なにも矛盾がないことも気づいてください。

 

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その80」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube

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ブッダのことば

 

わたしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。

まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。

(「大パリニバーナ経」ブッダ最後の旅 中村元訳 第二章より。強調処理は私です)

 

 

 

 

 

これに関して昔から変だと思ってることがある。

密教は「衆生秘密」と「如来秘密」を主張する。

衆生秘密」とは、聞いても聴けず、見ても観えずのいわゆる「バカの壁」状態で、これは当然ある。だから「衆生自秘」ともいう。

 

しかし

如来秘密」は、大日如来に、ブッダも知らない秘密の握拳の教えが存在するという主張で、あからさまに愚かな妄想だ。これは当然ありえない。

加持祈祷などの茶番劇で世俗に阿り、易々と繁盛したが、肝心の仏法は衰退した。

 

 

商売してんじゃないんだから

世俗の狂った期待に屈して

拍手喝采投げ銭もらっても。

 

テーラワーダも宗教なら斬る! #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube

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法話から引用させていただきます。
 
…毒矢のたとえ話を強く心に刻んで覚えておかないと、ブッダの教えは、自分の役に立ちません。ヴィパッサナー瞑想をして悟りにまで至る人がゼロに近いのも、そこなのです。皆、「誰が矢を撃ったのか」と調べようとするのです。自分の問題を置いておいて「輪廻などあるのか、神はいるのかいないのか」ということばかり考える。あるいは「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」と瞑想しようとする。そういう「思考・妄想」を置いておいて、自己をありのままに観察するのがヴィパッサナーです。自分の心をありのままに観察すると、自分が直るのです。他を直すのではなく自分を直すのです。自分の心の問題を解決することこそ、何よりも大事なことなのです。人は、人間として生まれた時点で、必ず、基本的に解決しなければならない「生きる苦しみ」をかかえているのです。初めから矢に刺されている状態です。でも「誰がこの矢を撃ったのかわかるまで、この矢に触るな」と言い張るのであれば、どうしようもない。どんな道を選ぶかは各自の自由なのです。
[引用終。強調は私です]

 

 

 

 

 

 ブッダの「毒矢のたとえ」の重要性を、おれはすでに何度も書いてきた。
しかし現実世界は昔も今も「誰が矢を撃ったのか」と調べようとする人が大多数だ。「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」乃至「輪廻などあるのか、神はいるのかいないのか」の追究には無我夢中にもなるが、じつに
毒矢を抜こうとだけはしない。

 

これはそもそも毒矢が刺さっている事実に気づいてさえいないからだと思って、過去記事に
 
 有名な毒矢のたとえの哲学青年マールキヤプッタは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。
マールキヤプッタは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。苦聖諦の気づきがなかった人だったのだ。
 
と書いた。
 
「毒矢のたとえ」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールキヤプッタが自分にささっている矢に気づく、苦聖諦に気づく話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。

日常人は死んでもなんとなくまだあとがある気分でいるから、それでサティを実践しても三日坊主にもなれずに終わる。
じっさい、あなたの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。

 

 大多数の人々の(口先ではなく)行動が現す考えはこうだ。
生老病死など苦ではない、なぜなら生まれた以上だれでも老病死するのだから、そんなことで悩むのは無駄、そんなことより日々眼前の「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」等に全力で取り組むべきだ。
 
 
 
 

 これが正に、タイムリミットのある人生の優先順位も知らず「誰がこの矢を撃ったのかわかるまで、この矢に触るな」と言い張っている愚人と同じだと気づかない。
のみならず、信じられないほど愚かなことだが、人間は、毒矢の痛みに泣き笑い呻き叫び、そのように熱中没頭して毒矢を楽しんでいる。
人間の実態は、苦に無我夢中であることなのだ。
 

 

 これではブッダでも「どうしようもない。どんな道を選ぶかは各自の自由なのです」と言うしかない。
実際ブッダは、

わたしは目的地までの正しい道を教えるが、
それでも行こうとしない者の責任はとらない

とはっきり言っている。

 

ブッダの感興のことば27・7,8 中村 元訳)
より引用させていただきます。
 

人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。

このことわりを或る人々は知らない。

実にかれらはそれを(身に刺さったであるとはみなさない。

ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

 
(引用終。強調は私です)

 


 自我観念にたよれば、必然他人という観念にとらわれざるを得ない。不老不死永遠不滅のわが魂というエゴイスティックな妄想にもとらわれざるを得ない。
自我観念にたよれば、いじめから戦争に至るすべての争いはとめどなく続かざるを得ない。
 
 
 

 

 

 結論は、

苦聖諦を学んでのみ

得ることができる

特別の活力

ヴィパッサナーを

実践する。

この一事だ。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 
 
 
(過去記事統合増補編集再録)