哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ファクトに反するイルージョンを頑なに信じこむ。衆生自秘という。

 

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人々は口先で「すべて無常」を認める。

 

同じ彼らが「無常なるは苦なり」は認めてない。

花火も シャボン玉も 楽しいからだ。

 

「自分」だけは無常じゃない

と妄想してる彼らは

自分のことは棚に上げて

無常を楽しがれるのだ。

 

同様に、無我を決して認めない。

この世界でこの上なく確実なものは「自分」だ

という沈潜した妄想があるからだ。

 

世間知は、

無我を蛇蝎のごとく嫌ってる。

「無常は苦」も蛇蝎のごとく嫌ってる。

無我と苦を断固拒否することで

無常の事実も拒否してる。

 

 

ファクト重視が仏教の特色です #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube

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大多数の人々はファクトと真正面から向き合うことをしない。
あらゆる問題を解決するには、常に例外なくそうするしかないのに。
その代わりに、こうあって欲しいという、ファクトに反するイルージョンを頑なに信じこむ。衆生自秘という。

 

 

Wikipedia「諸法無我」より引用させていただきます)

アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。
「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。
 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。
 すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。

—パーリ仏典, 中部 35 Cūḷasaccaka Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project 

 

 

サティとヴィパッサナーだけが

イルージョンに滑り落ちず

ファクトに止まる。

 

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること