哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

無我で欲望をむさぼる人は最悪。

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ) - YouTube

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以下青字佐々木閑先生の言葉です。黒字はおれの勝手な感想です。

 

知性高い人たちはみんな「わたしたちの中に我が無い」ということをすぐ理解するんです。そして我々は単に五蘊という五つの構成要素でできている集合体にすぎないとわかるんです。

 

 

 

近頃、ブログでも、宗教系のyoutubeでも、無我を軽々しく扱う人が急増してる気がする

「ああ無我でしょ。自我ってほんとは無いよって話。知ってますよ。わたしちゃんと理解してますよ」

と平気で言う人が出てきた。おれが若い頃ほとんどいなかったのに。

 

 

これは忌忌しき事態だとおもう。

なぜなら、こういう人は、

 

無我はわかっているのに、

欲望むさぼりのある人になる

 

という、ある意味最悪のゾーンに落ちやすいからだ。

 

日本はこの前の戦争中、滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする、醜怪な欺瞞が国中で蔓延はびこった。

この悪夢が理論武装したバージョンアップ版でよみがえるだけだ。

 

 

ブッダ

自我に執着しないのは当たり前だけど、

その先にある五蘊にも執着してはならない

と説かれた。

 

古くから床の間の掛け軸などにもなって、こすり倒された

「溪聲山色」 「霊雲桃花」「香厳撃竹」 等の言葉。

世間は雰囲気で何となく、

自然は、善心の味方で、

自然を愛でる豊かな心は悟りに近しい

とおもってるし、

「見色明心」は、

そういう意味のありがたい言葉

と受け取ってる。

 

それって、まるっきり違うでしょ。

むしろ、事実は真逆だ。

 

 

そもそも、この言葉の出典

『従容録第八十二則 雲門声色』

 

声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。

 

と、見色明心を、

いまだ五蘊に執着し解脱を妨げる姿勢と断じ、

 

聞声悟道、見色明心は、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭

 

と評している。

観世音菩薩など持ち出して

頑なな世間を慰撫しつつも、

要するに、

五蘊に執着してるおまえら

レベル低過ぎ

と言ってるのだ。

 

 

 

 

五蘊について、詳しくは上記動画

舎利弗の説法を解説する、佐々木閑先生の明快な講義をよく聴いてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

Ritchie Valens Audition For The Silhouettes (La Bamba) - YouTube

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