もう40年近く昔になるが、当時の自分の考えをまとめたものの中に、バガヴァッド・ギーターに関連して、こう書いてある。
自然的人間は、自身その一部分である自然の生きんとする衝動を肯定し身をゆだねる。
子供から大人に成長しても、昔は無自覚でしていたことを今は自覚的にするくらいのことだ。
自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが自然的人間の人生の究極の形である。
自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが自然的人間の人生の究極の形である。
彼らはときに口では否認しても心底では常に野心家の人生にあこがれている。
興業的に成功する映画がほとんどすべてといっていいほど野心家の生きざまを描いたものである理由はここにある。
野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」になる。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。
野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」になる。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。
ある人が他の個人と異なっていることとか、他の人が背負っている苦悩を自分は免れているといったことは、現象の形式、「個体化の原理」にもとづくことにすぎぬ。事柄の真の本質からみれば、人は誰でも生きんとする確たる意志であるならば、いいかえれば全力をあげて生を肯定しているのであれば、世界のありとあらゆる苦悩をわが身の苦悩とみなすべきであるし、それどころか今後起こり得るすべての苦悩をも、わが身にとって現実的な苦悩であるとみなさなくてはなるまい。
(「意志と表象としての世界」より引用終)
この境地こそ、生きんとする意志をあくまで肯定する地上的道徳の最高形式である。
この感情が宇宙大に拡大されて、小宇宙たる自分のエゴが実は大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。
この感情が宇宙大に拡大されて、小宇宙たる自分のエゴが実は大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。
(引用終)
まだ、理解が足りず、その迷いが表現をあいまいにしていたと分かる。
今なら、もっとハッキリ言えます。
たとえば、当時こう書いていること。
バガヴァッド・ギーターは、自分の我を捨て神クリシュナの大我と一体化し、神の義務(殺人)を遂行せよと説いている。
これ、なんのことか分かります?
バガヴァッド・ギーターをでっちあげた
人間達
が、
権力者に「殺せ」と命令されたら、
ためらわず実行しろ
と、
絶対神を僭称して
命令しているに過ぎない。
今なら、こうハッキリ書きます。
(過去記事統合増補編集再録)