哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー 編修1

国家というものは、理性を具備したエゴイズムがエゴイズムそのものに降りかかってくるそれ自身の悪い諸結果を回避しようとするための手段である。
(「意志と表象としての世界・正編」第六十二節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 62 と表記する)

刑法の法典とは、可能性があると想定された総犯罪行為に対する、反対動機の、できうるかぎり完全な目録である
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ようするに、刑法の内実の主張は…おまえがこれなる悪をおこなえば実害が他人に及ぶ可能性を認められるかぎり、これなる公的報復がおまえのために用意されている。(だから思い止まるならおまえにとってけっこうなことだ)というものだ。
猛獣も口輪をはめれば、草食動物と同じように害がない
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 かくて法律はエゴイズム調整の手段である。
なんらエゴイズム(悪の根源)の廃絶をめざしておらず、むしろエゴイズムの不変性をあてにしている。自分一人のエゴイズムを全肯定して他者のエゴイズムを肯定しない自然状態を脱して、なるべく大勢のエゴイズムを平等に肯定するための計算づくの手段の体系である。
政治もまた人間のエゴイズム活用である。
どんな政治制度であってもその点は変わらない。


 エゴイズムが絶対なくならないなら(なくならないであろう)、法律とそれを堅持する国家はエゴイズムを調整するシステムとして絶対に必要である。


さりとて国家などというものはそれ以上の値打ちのある代物ではない。
神聖~帝国だの、神に選ばれた国だのといったことは漫画の主題にすぎない。
なぜ漫画なのかというと、エゴイズムは自分がわずかばかり理性的にふるまっているというだけで、さっそく「神聖な」だの「侵すべからざる」だのと御大層な形容詞で自画自賛しだすからだ。

(へーゲルはエゴイズムを市民社会発展の原動力として肯定し、法律を賞賛し国家を神聖視した。つまり彼は現実の社会をなんとか肯定的に評価できるようにあれこれ解釈してみせた。その解釈が見事につじつま合わせに成功しても、おれは、現実肯定の解釈を哲学だとは思わない)




救いのための唯一の方法は、まず生きんとする意志がなにものにも邪魔されないで現象して、そのうえでこの現象の中に意志が自分自身の本質を認識できるようになるというまさにそのことなのである
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自分の意欲を外部の力によって誤解したり抑圧したりしたまま死んでいくくらいなら、初めから生れてこない方がましだったろう。


われわれは「国家公民としての人間」であるまえに「人間としての人間」でなければならないのだ。



自分をきっかけにして、生きとし生ける存在者たちの生きる意味が、究極唯一の疑問として自覚されたとき、初めて人間の人間としての生がスタートする。



ショーペンハウアーは、しだいに高くなる三つの人間精神について語っていると思う。
キーワードは「生きんとする意志」だ。

(以下は、おれのかってな解釈)





平均人
 生きんとする意志の肯定が動物同様に自然のままの段階。
(スタート地点は空海の十住心論と同じ。第一異生羝羊心にあたる)



野心家(悪人と正義の人)
 生きんとする意志の肯定が自覚的積極的になる段階。これには二種類ある。
個別性の迷妄にとらわれている者は極端なエゴイスト=悪人になる。
個別性の迷妄をいくらか打ち破った者はその程度によって、冒険家、慈善家、革命家、宗教家などになる。彼らを「正義の人」と呼ぶことにする。



聖者
 生きんとする意志を否定する段階。精神の最高の段階。




空海の十住心論よりも、簡潔明瞭だと思う。



ショーペンハウアーは、1番目の平均人については苛烈な口ぶりになる。
しかし、それだけ取りあげて人類全体に対するショーペンハウアーの人間観だとするのは、誤解である。


彼の人間観の真髄は、3番目の聖者にある。


人間は当然聖者になるべきだ。



ショーペンハウアーは主張しているとおれは思う。
なぜなら、人間の救いは、そこにしかないからだ。






平均人については、ここでまとめて論じておくことにする。
まず平均人の特徴を確認しておこう。




 
世の中には、自分のうちに現象している意志が弱いためにただ善良らしく見えるにすぎないような人々がいる。しかしこういう人々は、正しい善い行為を実行するに足るだけの十分な自己克服の能力をもっていないことでたちまち正体を暴露してしまうのである
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 つまり平均人は意欲の弱さによって野心家と区別される。
また、自分から法律上の不正に手をそめることはあまりないという点で、「正義の人」と境界を接した存在である。


 
一般に最大多数の人々は他人の数しれぬ苦しみを身近に知っても、もしこれを緩和してやろうとすれば、自らがいくらか不足を忍ばねばならないので、そういうことをしようとは決心しない。つまりこれらの人々にとってはいずれも、自我と他我の間に巨大な区別が存在するものと思われているのである
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 個別性の迷妄という点で平均人と悪人は共通している。
平均人は、いわゆる悪人然とした悪人に比べるとむしろ罪のない善人に見える。
しかし、それは彼らの意欲がそれほど活力がないからにすぎない。
それゆえ、自己の本質に対して無自覚でいることもできる。
ショ-ペンハウアーによれば、平均人と悪人の違いは、自分の悪の傾向に対する自覚があるかないかということだけなのだ。





以上が平均人の主な特徴である。このような人間の人生はいかなるものになるか?


 
彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、ただちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁栄である。人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう
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信じえないほど大多数の人間は、その本性からして、物質的な目的のほかいかなる目的をもつ能力ももたないし、いな理解する能力すらもたない
(主著第二版への序文)

大多数の人たちにとっては、純粋な知的な喜びなどは近づくすべもないことなのだといえよう。大多数の人たちは純粋認識のなかにひそむ喜びを味わう能力をほとんど持ち合わせていないのである。彼らは欲へと向かうように全面的に指図されている
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彼の思考が関係してくるのは手段の選択の場合だけである。ほとんどすべての人間の生活とはこのようなものである
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 平均人に人気のあるエンターテインメントな通俗小説や興業的に成功する映画が、人々の知的な認識能力を当てにする部分が少なく、人々の欲望を当てにし、これを刺激することで面白いと思わせる部分が多くなっているのももっともなことなのだ。
 また美術品投資に対する平均人の反応などを見ていると、どうも彼らは美の理解ということを、海外旅行をしたり別荘をもったりすることと同類のぜいたく事のように心得ているらしい。
平均人には美というものの存在さえ、たいして信じられていないと疑わせるふしがある。
ショーペンハウアーがこの点について人の意表をつくなかなか面白い例をあげているので、ついでに紹介しておく。
 
たとえば彼らは名所などを見物に行って、そこに自分たちの名前を書きつけたりするであろう。これは名所の方が自分になにひとつ働きかけてこないので、逆に自分の方から名所に働きかけようとしているためなのである
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 さて、ショーペンハウアーの舌鋒はさらに鋭くなる。
最大多数の人々は、あたかも時計が、発条(ぜんまい)を巻いてもらって、自分ではなぜだか分からぬままに動いているというのにも似ている。一人の人間が生殖をうけ誕生してきたそのたびごとに、人生というこの時計はあらためて発条を巻かれることになり、これまで無数回すでに奏でてきた琴の曲を、一楽節ごとに、一拍子ごとに、くだらない変奏曲などをそえて、いまいちど最初から演奏をくりかえすというようなことになるのだといえよう
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 平均人は死によっていやおうなく自分から脱却させられるその臨終の瞬間までけっして彼自身の個別性の迷妄から免除されない。
けっきょく最後は一人の例外もなく強制的・暴力的にこの世から引き離される。
それは、誰知らぬことなき常識とされている。
しかし、その森厳な事実と対峙することで引き出されるはずの心得が、日常において善き効果を発揮することは皆無に近い。


個別性の迷妄によって、平均人が自分自身であると盲信しているものの確実さを疑わせるように見えるあらゆる認識は、半ば意識的半ば無意識的に黙殺され無効にされている。


たとえば、若き釈尊をあれほど苦しませた生病老死の悩み、釈尊を、悟りにまで導いた聖なる不安を、平均人はどう考えているだろうか。
万人に共通で、人間生活から切り離せないような禍いならば、われわれは心をあまり暗くすることはない
65  という不可解な心理ひとつで、いとも簡単に忘れてしまうのだ。



平均人の認識は、意欲のための認識、意欲の手段としての認識としてのみ現われる。
それ以上の深い内省といったことは、彼らをただちに落ちつかなくさせる。
なぜなら、そのような自己の内側に認識を向け意欲自体を是非する試みは、平均人としてよって立つ彼の足場をこわしかねないからだ。
平均人には、こういうことが通常けっして起こらないことによって、正に現にあるとおりの気質であり続けられるわけなのだ。


このような哲学的試みが、平均人にはなにか不吉な精神病の前兆のように感じられるのも、彼らにしてみれば当然であるわけだ。
自身の被害妄想によって、自分の現在の気楽な日常を捨てるように強要してくるように見えるものは、それが立派な内容であればなおさら黙殺されるのだ。




 かくて、平均人の人生の特有性をまとめると次のようになる。



生活自体に存在の意義が欠落していること。
(たとえば、老いや死は言葉としてのみかろうじて知っているだけで、その実際の恐ろしい意味は知らなかった、昔のおれ)



そのことへの反省が欠けていること。
(知らないという事実にも気づいてはいなかった)



唯一の覚醒の契機である不安への、自己破壊的な対応。
釈尊を、悟りにまで導いた聖なる不安を、平均人はどう考えているだろうか)


 都会では大勢の平均人が会社人間として、与えられた仕事か、さもなければ気晴らしで無数の一週間を、機械のような勤勉さで塗りつぶしていく。
そして彼らの大部分がそれを定年まで続けたあと、ぼけ老人になるまでの期間を、またしても老人向きに用意された気晴らしで塗りつぶす。
このような生活は、人間存在としては緩慢な自殺だ。








さて次は、2番目の野心家について。
まず悪人から。


サドの小説のなかに、太い単純な輪郭で描かれる主人公たちは、正にここでいう悪人にあたる。
彼らが個別性の迷妄を毫も疑わず、自分と自分以外の存在者の間の完全な区別に固執するさまは幻想的でさえある。
なにしろ、女は自分で生んだ赤ん坊を平気で暖炉にくべてしまう。


しかし現実の悪人は、サドの創造したキャラクターほど冷血で首尾一貫したものではなく、もっと人間的で悩み多き者たちであろう。
現実の悪人とは、誰もがもっている生きんとする意欲が並外れて強く激しいため、平均人のようにそれが自分自身の身体の肯定だけではおさまらず、他の個体の意欲を否定するところまでいく人間のことをいう。
当然生じる他人とのトラブルの中で、自己の本性に対しても無自覚でいることはもはや困難になる。
自己のエゴイズムに明確な自覚があるかないかという程度の差で前者を悪人、後者を平均人と呼び分ける。


 
どはずれた歓喜を覚える人物はまた激しすぎる苦痛をも味わわないわけにはいくまい。というのもこの双方は一つのことの表と裏であって、ともに精神の大きな活気を条件としているからである
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 さまざまにやって来る苦痛のなかでも、なにものにもかえ難いこの肉体と意識(「私」)が滅び去らねばならないことこそ、自分にとって最大の苦痛である。
エゴの個別性という二重の錯覚を、積極的に肯定した悪人の生きんとする意志は、どうやっても避け得ない死によって自然から絶望的に裏切られる。
そうなる原因を、彼は自分の外界に探しだそうとするが無駄に終わる。
真の、また唯一の原因は、彼が錯覚によって初めから内部に抱かえていた自家撞着にある。
外部に、彼がその時々に発見する原因らしく見えるものは単にそれが現われる機会因にすぎない。


悪人は、個別化の迷妄から自由になるにしたがい「正義の人」となる。
しかし、彼はまだ意欲を自覚的に肯定する点で、悪人とともに野心家と呼ぶべき同じレベルにある。
野心家の頭脳は、意欲とわかちがたく結ばれているものにすぎない。


認識はほとんどつねに意志にまるめこまれている
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ショーペンハウアーの「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、見た目ピカピカの別物に見せているに過ぎない。

理性は、意欲に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。



理性は、今や屈服した我が身を取り繕い弁護するためだけに働く。
意欲を肯定した理性は、苦を厭い避けることが自己矛盾となるので、逆に苦を安直に(つまり通俗的なやり方で)神聖化する。


たとえばこうだ。
「苦あってこその楽しみなり」故に「苦は我が楽しみの一部なり」と彼らは厳かに宣言する。
意欲を肯定する者は必ず苦をも肯定するはめに陥るのだ。


今や欲望の召し使いとなり果てた理性は、苦が人生を十全に味わうために不可欠の要素と認め受け入れた。
つぎに、それを大人として立派な姿勢だ、男らしい態度だ等々の自己賛美で飾り立てる。


「楽は我が苦なり」という聖者に対して、野心家は「苦は我が楽なり」という。




「野心家」の最終形について。




 野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」となることはすでに述べた。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。




 
ある人が他の個人と異なっていることとか、他の人が背負っている苦悩を自分は免れているといったことは、現象の形式、「個体化の原理」にもとづくことにすぎぬ。事柄の真の本質からみれば、人は誰でも生きんとする確たる意志であるならば、いいかえれば全力をあげて生を肯定しているのであれば、世界のありとあらゆる苦悩をわが身の苦悩とみなすべきであるし、それどころか今後起こり得るすべての苦悩をも、わが身にとって現実的な苦悩であるとみなさなくてはなるまい
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この境地こそ、生きんとする意志をあくまで肯定する地上的道徳の最高形式である。


この感情が宇宙大に拡大されて、
小宇宙たる自分のエゴが、大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。


精神はエゴの努力だけで、じつにこれほどの高みにまでたどり着くことができる。


ウパニシャッドの聖仙たちは、この大宇宙こそ真の自己であると如実に悟ることのできた場合は、絶対的自由を得ると主張している



 しかし、この段階でも
生きんとする意志がその内部において背負わされている自家撞着
61 に対する深刻な反省と批判は、まだ充分に現われていない。


たとえば、聖典『バガヴァッド・ギーター』を見よ。
戦闘を中止しようとためらうアルジュナ王子に、迷うことなく殺戮を続けるよう説得するくだりで見せる、神クリシゥナの一種冷血な楽天性は、このことを証拠立てていると、おれは思う。









さて最後に、3番目の聖者について。



聖者の境地は、聖者にしか分からない。
と言ってしまえば、話はここで終わってしまう。
ショーペンハウアーの力を借り、無理に想像して書いてみよう。本気にしないように。






 真に根源からの反省と批判がはっきりと現われるのは、肯定された意志の自己否定という、パラドキシカルな決意のなかにおいてである。


総じて否定とは、Aを否定してA以外の何かを肯定する結果に落着するものである。
ところが意志の否定の場合だけは、意志以外の何かを肯定するという結果は生じ得ない。


全宇宙は生きんとする意志であり、生きんとする意志以外のなにものも存在しないからだ。


では、どういうことになるのか。


この袋小路から抜け出るために昔から様々のことが論じられてきた。
しばしば、全存在の全否定は当然「無」であると主張されてきた。
しかしそう主張する者も、彼を包む宇宙も消えてなくならない以上、彼が「無」という言葉で表現しようとしていることは何なのか。


すべては関係性において存在しているからその本質においては何一つ存在していない(無、あるいは空)という有名な主張は、今の場合、当てはまらない。


全存在を全否定しようとする意志のエネルギーは、不可能な無に成ろうとして果たせないために行き場を失い、瞬間に反転して直ちに全存在の全肯定となるのではないか。


意志の否定は起こり得ないゆえに、どのような道を通ろうと、結局意志は最終的に肯定されるほかない。


しかし、このような意志が肯定から「無の壁」に激突反転して再肯定に舞戻る、一見徒労に思えるプロセスこそが、最初の自然的な意志の肯定(平均人)と自覚的な意志の肯定(野心家)の持つ宿命的欠点を改善するのではないか。


聖者の行状振舞いにおいて感動的に表現され伝わってくる、概念的認識を超越したもの(釈尊とイエスキリストがともに観て体験した一つのこと)…これを認識的にとらえようとする努力に常にあらわれる困難と混乱は、だれの目にも明らかに見て取れる。


概念で表わせないことを、直に言語化すると、たいてい夢のような茫漠とした表現、あるいは狂人の語る自家撞着的言葉に似たものになる。
日中の禅家語録は、そのような表現の一大集積だ。
表現上のあらゆる工夫を駆使して、なおこの分かりにくさだが、これには必然性があるわけだ。
抽象的なことがらが人に理解されるのは、結局、世の中の人々の申し合わせにもとづいている
48  概念化の手段(言葉、文法)は、平均的人々の平均的人々による平均的人々のための道具である。
きわめて例外的な、因果律に支配されない聖者の体験は、前提されていない。
平均的人々は、そのような体験を夢にも知らない。
だから、それを表現する言葉も文法も初めからない。






 さて、話はちょっと変わるが、矛盾を解消する簡単な方法がある。
自然の大いなる意志と人間の意志とを別物とみなし、人間意志が自然の衝動的意志を否定し、支配しようとする奮闘によって完璧に自由な境地まで、自力的に連続的に成長していく。
こう、対立図式的に理解すればどこにも齟齬はない。


ところが、これこそショーペンハウアー
ペラギウス風な下衆の浅知恵を好む粗野平板な見解
70 と嘲笑したものだ。


じっさい、聖者の行状を多少でも知っているなら、この対立図式的説明が肝腎の事実に反していることに気づかないわけにはいかないだろう。


意志の否定はおのずと成る。
主体的にいえば、それは他動的にそうさせられる。
(ここに、超越的人格神が出てくる心理的装置がある)


ショーペンハウアーはこれを説明して

認識の仕方の転換

であるという。
それはもはや、普通の意味での認識ではないともいう。68


苦悩を出発点としてそこから意志の否定が生じるのは、原因から結果が生じるような必然性をもって起こることではけっしてなくて、意志はどこまでも自由である。ここにこそ意思の自由が直接的に現象のうちに出現する唯一の点がある
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苦しみ悩めば、間違いなく救われるというわけのものではない。
ただし、悩むべきときに悩みも苦しみもしない者は救われない、ということは確実にいえる。


釈尊は、生病老死という真に悩むべき唯一の悩みを、かって地上に存在した誰よりも誠実に悩み抜いて、ついに救われ悟ることができた。
人間の正しい出発点と正しい方向と正しい目標を、あらゆる聖者の中で、釈尊は最も的確にコーチングした。
宇宙は有限?無限?世界のはじまりは?死後の世界は?等の形而上学的議論をいっさいするなと釈尊ははっきり教えた。
解脱のために有害なことを知り抜いていたからだ。(釈尊の獅子吼『毒矢の喩え』の教え)





信じられないほど多くの人が、間違った出発点から、ありもしない目標に向かって、間違った方向に出発している。




われわれは、まず正しい出発点に、あらためて立ち直すことから始めないと、どうにもならない。
人間の責務は、ほかには考えられない。



以上で1、平均人 2、野心家 3、聖者 を、ひととおり書き終わった。






(過去記事統合増補編集再録)