哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

カントとニーチェとおれの好きなショーペンハウアー

 昔、弟と話したことの断片が浮かんできた。


「…主観と客観の問題が最後まで残る」


弟「主観と客観ってなんやったっけ?」


「自分と自分以外のもの」

「昔、カントが純粋理性批判という本を書いて、神の存在は認識することも証明することもできないと言った。
その後ニーチェという男が出てきて、認識することも証明することもできないものは皆インチキだと言ったんだ。
カントの言ったことを一歩進めたわけだな。

カントとニーチェの間に、おれの好きなショーペンハウアーという人がいて、しゃべったり命令したりするキリスト教的な人格神はいないけど、仏教的な悟りはあるんだと言ったんだ。
ニーチェはそれもないと言った。
それもなかったら大変だぜ!」

弟は頷いた。






 悟りなんてないと思っている人は多い。
それは、ニーチェのように思考を突き詰めてのニヒリズムじゃなくて、周りの空気を読んで気楽に調子合わしてるだけだけどね。
それでも悟りを言葉で理解できるとおもってる人より悟りなんてないとおもってる人のほうが、まだしも健康だとおもう。
なんであれ言葉で理解できることなら、それは既成概念の工夫だからね。
既成概念の工夫なら悟りとは関係ない。
直前記事「ブッダの地図は、目的地に実際に行く人のためのもの」に
釈尊の示した悟りの道案内の地図の隅々まで詳しく研究して地図の専門学者になってもなんの意味もない」
と書いたとおりだ。


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(過去記事増補編集再録)