哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ブッダの地図は、目的地に実際に行く人のためのもの


 釈尊の元々の教えを読むと、釈尊無宗教やな、あの人は。
全然宗教なんて信じたらあかんと書いてある。
自分でチェックして調べて…要するに科学者になれってことを言うとるもんで。
わけのわからんもんを頭から信じるなんてとんでもないと釈尊は教えている。
だからわたしの言うこともちゃんとチェックして…わたしの言うことだからといって頭から信用する必要なんかなんにもないんだと釈尊は教えている。
わたしが実際に経験して悟りまで行ったもんで、先に行った者として道案内してるだけだと。

こう行ってこう行ってここで右に曲がってこう行ったら行けますよって言うとるだけやから、後はあんたらが頭から信じるんじゃなくて、わたしが言うたとおりに実際に行ってみいちゅうことを言うとるわけや。
行ったら行けるからちゅうことを言うとるわけや。

だから、釈尊の教えは宗教やないで。ちゃんと確認してやれって言ってるんやから。

釈尊は科学者や。



(禅に聞け 澤木興道老師の言葉 櫛谷 宗則編)より引用します。
科学者の実験──それがわれわれの場合では修行である。実験のない科学がツマラヌように、修行のない仏教はツマラヌ。





 実物さえあれば言葉は自由自在に表現できる。しかし言葉は実物ではない。言葉の中に実物があるなら、「火、火」と言うたら舌は火傷し、「酒、酒」と言うたら酔っぱらうじゃろうが、しかしそうはゆかんじゃないか。

実物のないものは、何と言うてもダメである。理屈をどう言うてもダメじゃ。言葉は言葉だけのものである。
 わしは西田幾太郎の本もよう読んだが、「ただ新しい言葉を発見するだけなんだな」と思った。





 ホトケに成りたい?ホトケになんぞ、ならいでいいんじゃ。
 今が今、自分が自分すればいいんじゃ。
 ここを捨ててどこへ行くというんじゃ。

(引用終。強調は私です)









 釈尊の「自灯明」の実物を「自分が自分する」と澤木老師は教えてくれてます。
老師は実物を持っているので、このように独自の表現が自由自在にできる。
 実物さえあれば言葉は自由自在に表現できる
のです。

(仏法に限らずじつは何でもそうなんだけど)
 仏法は特に、言葉や理屈だけでは微塵も誤魔化せない世界です。


 釈尊の示した悟りの道案内の地図の隅々まで詳しく研究して地図の専門学者になってもなんの意味もない、実際に地図に示された道をその通りに自分の足で歩いて確かに目的地にたどり着く体験をして、初めて地図の意味もありがたさも分かる。




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