浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
(歎異抄 第四条より)
ここで親鸞聖人は、浄土教特有の表現ながら、自分が溺れている身で人を助けることはできないという釈尊の本来の正しい教えに見事に回帰していると、おれはおもう。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(農民芸術論綱要)と、宮沢賢治はいった。この
しかし、これは釈尊の教えではないとおもう。
(以下老婆心補足)
「かっこいい」はいわゆるironyです。
自分の縛めを解かずに人の縛めを解くことはできません。
大乗仏教は、自分達の誰一人できないことを人々に説いているとおもいます。
釈尊ならむしろ「個々人が真の幸福(悟り)になろうとしないうちは、世界がぜんたい幸福になることはありえない」と言うとおもいます。他人の縄を解きたいひとは、まず自分の縄を解きなさい、この順番はかえられません。
釈尊は目的地(真の幸福=悟り)までの正しい道筋を教えてくれるだけです。自分がそこに実際に行った人の教える道順だけが信頼するに足るものです。しかし、教えても行こうとしない人は釈尊といえども放っておくしかありません。釈尊の慈悲は適切で至高のものだとおもいます。
現代の問題は、ほんとうに自分一個の救いに 精一杯の人がどこにもいないことだ、とおれはおもっています。
悟る前の釈尊はそういう人だったとおもいます。
自分の暗い部屋で落し物をした人が、ここは暗くて探しにくいとおもい、隣の明るい部屋で探します。その人は精一杯がんばって探すが、落し物は見つかりません。(昔読んだたとえ話)
「人は死んでも生きている」という世間一般の幻想を自分も共有したままで、いくら精一杯救いを探し求めても、落してない隣の明るい部屋で探してるようなもので、救いは見つかりません。
おれの考えでは、それは口先だけの「 精一杯 」です。
仏伝によると「わたしが悟った甚深微妙難見の法を世間は到底理解しがたい。法を説いても、わたしがいたずらに疲労困憊するだけだ」とおもう釈尊に、初転法輪を勧請した梵天が「世間には、法を聞かなければ退堕してしまうが、聞けば悟る可能性のある者もいます。この者たちを見捨てないでください」という意味のお願いをします。釈尊はこれを是とし「耳ある者に甘露の門は開かれた」と宣言します。
大乗仏教は釈尊を超えたのでしょうか?彼らが自分たちの誰一人できないことを主張しているのは明らかだとおもいます。宗祖や宮沢賢治の教えより釈尊の教えを尊重すべきだとおもいます。
おれは近しい師を持つ機会がありませんでした。澤木師、スマナサーラ師を尊敬していますが、直接口を利いたことはありません。「釈尊の残した教え」がおれの師だとおもっています。「釈尊の言葉」は特別で、その精神に触れるためには、釈尊の言葉にあえてとらわれることが絶対必要だ、とおれはおもっています。「釈尊の残した教え」がおれの師だ、というのはそういう意味です。わかってもらえないかもしれませんが、おれはそうおもっています 。
おれは阿難や周利槃特がいた原始仏教僧伽に帰依しています。日本の伝統仏教のなかでは道元禅師の曹洞僧伽にもっともひかれます。
「釈尊の言葉にあえてとらわれることが必要」と書いたのは、「わたしの言ったことは言ったとせよ。わたしの言わなかったことは言わなかったとせよ」という釈尊の教えを墨守するという意味です。
輪廻に関してはなにもしりません。輪廻がわからない人は修行できない、悟れない、と釈尊は言ってないので、放っておけばいいとおもっています。
「自灯明・法灯明」が釈尊の直説で、大乗の法四依などとは比べものにならないほど優れているとおもっています。
あと、昔体験してるんですが、他人も自分じゃないかって把握で自他の矛盾を一気に乗り越える道があります。
…でも、これ今のおれには正直ちょっと無理がある。
自未得度先渡他の教えは、尊敬する道元禅師・澤木老師が大事だと明言しているので、違和感を感じつつ長い間対応に悩みました。最近は記事で書いたような心境に行き着きました。また変わるかもしれませんが。
まず自分が幸せにならないと、誰一人幸せになれません。親鸞聖人は歎異抄第四条でそう言っているんだとおもいます。
(過去記事統合編集)
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