おれには、おれが生まれる前に死んだ兄がいた。
兄は赤ちゃんのまま死んだ。
兄は何のために生まれてきたんだろうと、折に触れて考えた。
兄は赤ちゃんのまま死んだ。
兄は何のために生まれてきたんだろうと、折に触れて考えた。
昔おれに洗礼を勧めるキリスト教系の宣教師とよく議論していた。
ある時、おれは自分の考えを、神を信じる相手に合わせた譬えで話した。
「人間は、神が神自身を見るために神が造った装置だとおもう。この場合、人間という装置は神より先に神を見て神に教える存在だということになる」宣教師は「なるほど」と言った。
ある時、おれは自分の考えを、神を信じる相手に合わせた譬えで話した。
「人間は、神が神自身を見るために神が造った装置だとおもう。この場合、人間という装置は神より先に神を見て神に教える存在だということになる」宣教師は「なるほど」と言った。
兄も生きている間、間違いなく熱心にこの世界を見、観取したはずだ。それが人間として生まれた意味だとおもった。
[同日追記]
過去記事「存在の意味あるいは人生の目的について」に、
過去記事「存在の意味あるいは人生の目的について」に、
私の個人的考えに過ぎませんが、人生は意味も目的もないと思っています。
そうなると(途中ははしょる)、釈尊の教えにしたがって修行する以外にとるべき道はいっさい残されていないと、やがて気づきます。
だから、この道を進むことが人生の唯一の目的だと言えば言えると思います。
と書いた。
この人生の唯一の目的である「釈尊の教えにしたがって修行する」が、もう何度も何度も記事にしてきた「今ここに気づき続ける」ヴィパッサナー実践です。老婆心で書きました。そうなると(途中ははしょる)、釈尊の教えにしたがって修行する以外にとるべき道はいっさい残されていないと、やがて気づきます。
だから、この道を進むことが人生の唯一の目的だと言えば言えると思います。