(黒谷上人語燈録15 禅勝房伝説の詞より引用します)
念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいといすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりで申されずば、妻を設けて申すべし。
妻を設けて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、
流行して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
衣食住の三は、念仏の
もし念仏の助業とおもはずして身を
往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。
良い意味でいいかげんだ、おおらかだと感じる人が多いようだが、そういうことではない。
念仏のための人生というスタンスから発せられた当然自然の言葉で、良い意味でも悪い意味でも「いいかげんさ」は微塵もない。
人生のために念仏があるのではなく、念仏のために人生があるという、発想の驚くべき逆回転がなされている。
これを「ばかげている」とおもったら、永久に真実は分からない。
「念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。」の教えを迂闊に読み過ごしてはいけない。念仏のための人生というスタンスはそう簡単には身に馴染まないからだ。
ちなみに「衣食住の三は三悪道なり。…三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」と断言し実行した一遍上人は、この法然上人の教えを知った上で「すべて捨てる」決意をしたのだとおもう。
この逆回転こそ転法輪だ。
釈尊が、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。
この構造をおれに適応すれば「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」となる。
この独り決めができないと、真の修行はそもそも始まらないのだとおもう。
(黒谷上人語燈録10 七箇絛起請文より引用します)
これ
論議はこれ智者の有なり。
更に愚人の分にあらず。
また
智者はこれを
※ 【由旬】ゆじゅん
古代インドでの距離の一単位。帝王の軍隊が一日に進む距離といわれ、約10km、約15kmなど諸説ある。
(大辞林)
これ以上言い争っても自他のためにならないと感じたら、すぐ議論を止めるべきだが、言い負かしたいという欲が判断を狂わせ、おれは何度も苦い経験をしました。
論争する者の心には、もろもろの煩悩が生じる。「論争の場から千km離れる」…この態度は基本だとおもう。
一枚起請文
法然上人の教えのなかで、これがもっとも好きです。
有名なものだから、知ってる人も多いでしょうが。
もろこし我が朝に、もろもろの智者たちのさたし申さるる、観念の念にもあらず。
また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思ひとりて申す外には別の仔細候はず。
ただし三心・四修と申す事の候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもう内にこもり候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあわれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし。
(黒谷上人語燈録11)
kyomutekisonzaironさんのブログ「混沌の時代のなかで、真実の光を求めて」から一枚起請文の現代語訳をお借りしました。http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2t5b211dGVraXNvbnphaXJvbi80NjIzOTE4My5odG1s参照。
中国 や わが国において さまざまな学者方の扱われてきた 観念の念でもなく、また 学問をして その念の意味を理解して 申す 念仏でもない。
ただ、「 往生極楽のためには 南無阿弥陀仏と申して 疑いなく 往生するぞ 」と思い取って 申すほかには、別に 言うべきものはありません。
ただし、三心・四修 ということのあるのは、 それは 皆 決定して「 南無阿弥陀仏(と申すこと)で 往生するぞ 」 と思う中に こもっているのです。
このほかに 奥深いことがあると思うならば、二尊(弥陀と釈迦)の 御哀れみにはずれ、(弥陀の)本願に 漏れることになるでしょう。
念仏を信じる人は、たとえ (釈迦が その)一代に説かれた八万四千の教法を よくよく学んだとしても、一文字も分らない(一文不知の)愚鈍の身となって、尼入道のような無智の者たちに同じて、智者の振舞いをせずに、ただ 一向に 念仏しなさい。
kyomu 現代語訳(以上)
上記の法然上人「一枚起請文」は手持ちの「佛教聖典」から写した。
家の宗旨は浄土宗なのだが、後で仏壇の引き出しから「浄土勤行集」を出して見てみると、こちらの「一枚起請文」には後書きが付いている。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存この外に全く別義を存ぜず。
滅後の邪義をふせがんがために所存を記し
建暦二年正月二十三日 源空在御判
力強い。
やはり、これは付いてるほうがいい。
(拾遺黒谷語燈録中 登山状より引用します)
いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。…
昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…
今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…
妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…
なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや…
最後に、法然上人道詠一首。
逢仏法捨身命といへる事を
かりそめの色のゆかりの恋にだに逢ふには身をも惜しみやはする
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(過去記事増補統合編集再録)