哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「苦は幸福の面をかぶる」スマナサーラ長老

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お釈迦さまは欲の楽しみは、火に喩えているのです。火にいくら燃料を与えても、満足して消えることはないのです。燃えれば燃えるほど、危険性も増すばかりです。火に対しては、燃料をあげないことが答えなのです。欲に対しても、燃料をあげないことにするならば、満足というものを味わえるはずなのです。この真理は一般人には、なかなか理解しがたいのです。
スマナサーラ長老「苦は幸福の面を被る」~欲と怒りは幸福を燃やし尽くす~)より

青酸カリはそのまま飲んでも、豪華な料理に混ぜて食べても、猛毒なのです。怒りも、どのように正当化しても、他人を破壊する、また自分自身を破壊する道なのです。単純に怒って損する人の場合は、やがて怒りが悪いと気づくこともできますが、美辞麗句で怒りを正当化する人の場合は、それさえもできないのです。お釈迦さまは、怒りほどの損は無いと、説かれたのです。

 しかし一般人には、これが理解できないのです。怒らない人はバカだと、間抜けだと、臆病者だと、腰抜けだと思っているのです。怒りで、負けず嫌いで攻撃に挑む人は英雄なのです。人は怒ることしか知らないのです。怒ることで損しか得られないのにもかかわらずです。それで自己破壊・他破壊の道を選んで、避けようとした損を確実に獲得するのです。生涯怒りを崇拝する生き方をして、人生を失望一色にしてしまって、死ぬときは、惨めに死ぬのです。
(同)

 楽しむことが生きている証だと思っている間は、欲に燃料を与えて、どこまででも燃え続けるのです。怒りが元気に生きるための衝動だと思っている間は、人生は損ばかりで大失敗で終わるのです。欲に燃料を与えないことには、大変なエネルギーが必要なのです。怒らないために、必要なエネルギーも並大抵のものではありません。

 怒りと欲から離れた人ほど、エネルギーにあふれている人はいません。また、欲、怒りから離れて得られる平安は、永続するので維持の問題もありません。
(同)




一般人には理解できない」←この言葉を誰も他人事に聞いてはいけないとおもう。
欲と怒りが自他の人生を破壊する出来事を、どれだけ多く体験し深く知っても、解脱しないうちは、欲と怒りの支配から誰も完全に自由になれないからだ。

しかしブッダを信頼し教えをよく聴けば、欲と怒りの力を弱めることができる。ブッダが致命的破滅から常に信徒を守ってくれる。


◎経典の言葉
Natthia râga samo aggi - natthi dosa samo kali,
Nathii khandha samâ dukkhâ - natthi santi param sukham (Dhammapada 202)
欲に等しき炎無く 怒りと同じ負けもなし
(五)蘊に等しき苦は在らず 平安こそは無二の幸
(Dh.202)(江原通子 訳)