「
(現代語仏教聖典 釈尊編 9章5節「不動の心」より)
これだけ聞くと、ものすごい無茶な教えだ。
いったい誰が守れるだろう。
しかし、ブッダは続けて言うのだ。
「汝等よ、余の語に大なり小なりの過誤があると思うか。」
「否、世尊。」
「然らば汝等は、余の譬喩の教訓を、繰り返して反省せよ。それは汝等に永遠の幸福と、利益とをもたらすであろう。」
(同)
ポイントは、
ブッダのこの良薬「ノコギリのたとえ」を服用すれば、どんな怒りからも自由でいられる。
ということだ。
「あんなことをされれば怒って当然だ」「こんな目に遭っても怒らないやつは意気地なしだ」といった世間の常識は間違っている。
怒りはすぐ憎悪に変わる。憎悪は必ず自他を破壊する。誰も怒りをコントロールできないので、あらゆる種類の怒りを注意深く避けるべきだ。それがブッダの教えだと思う。
(ブッダの真理のことば ダンマパダ222 中村 元訳)より引用
走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは〈御者〉とよぶ。
他の人はただ手綱を手にしているだけである。
(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)
(引用終)
むらむらと起る怒りをおさえられない人、自分の感情に引きずりまわされる人は意気地なしだ。
そういう意気地なし共が、図々しくも、世間の常識として「怒るべきときに怒らない人間は意気地なしだ」という。
怒りの必要と効用を信じる世間の常識は正しくない。
たった1度の怒りは、それまで積みあげた万徳をも一瞬で根こそぎ破壊する猛毒を持っているからだ。
(ブッダの感興のことば第20章11,12,15,18,19)より引用
他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。
自分と他人と両者のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。──ことわりを省察することもなく。
集会の中でも、また相互にも、怒ってことばを発してはならない。
怒りに襲われた人は、自分の利益をさとらないのである。
怒った人に対して怒り返す人は、悪をなすことになるのである。
怒った人に対して怒らないならば、勝ち難い戦にも勝つことになるであろう。
怒らないことによって怒りにうち勝て。
善いことによって悪いことにうち勝て。
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。
真実によって虚言にうち勝て。
(引用終)
怒るべき時に怒らない奴は男らしくない、意気地なし、腰抜け、弱虫と散々に言われるが、それは言うほうが馬鹿で無知だ。「怒るべき時」なんて無い。
とにかく怒っちゃダメ。どんな理由があろうと怒ったらアウト、例外はない。言い訳もなりたたない。
ブッダが、パーラージカを犯したスディナ比丘を叱責した時や、教団トップの座を譲れとせまったデーヴァダッタを退けた時など
(…ちょっと怒ってるやん)
と思っても、それは下衆の勘ぐりです。
気づきのポイントを、理不尽な相手から、そんな相手に懐く自分の怒りの方にずらすのが〈御者〉のテクニックだとおもう。
憎い相手を目の前にしては、なし難いことだが…なんとか出来る様になる必要がある。
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(過去記事統合増補編集再録)