哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

坐禅用心記

 瑩山禅師坐禅用心記に「一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐」とある。
今、アーナーパーナサティ(呼吸の気づき)の中で、この教えを実行して効果があった。

 坐禅用心記は、昔十代のころに読んで、一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐の一句が妙に自分の心にひっかかった。しかし当時は純禅を祈祷で汚したことや数息観に反発し「文が説明的でくどい」と感じ、道元禅師の格式高い普勧坐禅儀ほど感心せず無視してしまった。

 今回ふとしたことから再読して、昔と違う強い感銘を受けた。
どうも自分がいつ死んでもおかしくない年齢と体調になり、ようやく一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐を身読できたらしい。…血が出るまで尻を鞭打たれないと一歩を踏み出そうともしない鈍馬なのだ。

 おれは両眼永閉の端的に向かって呼吸瞑想した。このままほんとに死ぬかもしれないと感じる。それでもいいと覚悟した。すぐ意識が強い集中状態になり、世界のすべての音が消えた。その世界を非常に明るい光が満たした。不思議なことが起こる。
おれは、それらの美麗な現象に意識をもっていかれそうになり、そのたびサティを呼吸に引き戻した。
蠱惑的な種種の奇特は瞑想につきものの病でしかなく、それに気を奪われたら即失敗する。
坐禅用心記に「或いは室外通見し、或いは身中通見し、或いは仏身を見、或いは菩薩を見、或いは知見を起こし、或いは経論に通利す、是の如き等種種の奇特、種種の異相は、悉く是、念息不調の病なり」などと注意されている。ふだん知っていても、いざとなって忘れたらなんにもならない。

 何が起ころうと、サティを常に呼吸に固定する努力。それがアーナーパーナサティの要点でありすべてだとおもう。