(菩提樹文庫)ディーパンカーラ・サヤレー「アーナパーナ・サティと五つの障害」より引用
……………………………… アーナパーナ・サティというのは、大変やさしい瞑想法で、難しいことはありません。 何故簡単かといいますと、 呼吸というのは昔からしていることで、生まれてから今まで、ずっとしていることなので、それを対象とするのは大変易しいことです。見誤るということはないわけで、呼吸が止まってしまったら、私たちは死んでしまうわけですから、絶えずある 呼吸を見失うことはありません。 呼吸はいつもあるのですが、心は呼吸の所に留まらないで、いつもどこかに彷徨(さまよ)い出て 妄想してしまう。そのために、集中力がなかなか得られないという結果になってしまいます。私たちは、集中するためにある種の闘いをしなければいけません。今日は、ファイトをしなければなりません(笑)。 闘う相手というのは不善な心で、そういう心が来たら闘って、それはいらないということで切っていく、そういう風にしなくてはなりません。では何がよくない心、不善心であるかを知らないとならないわけです。第一に欲です。こうしたい、ああしたいという欲です。これが一つの不善な心です。この欲望が現れたら、「これが欲望だ」ということで、ストップする。それが大事です。 どんな風にして、ストップさせたら良いか。気付き(サティ)によって、それをストップさせます。気付きというのは、一つのドアみたいなもので、不善な、欲望の心が来た時に、閉めてしまわなければ、どんどん入ってきます。それで、仏陀は集中の瞑想においても、気付き(マインドフル)というものがとても大事であると、仰っています。…
アーナパーナ・サティは、過去世の功徳かなんかで、やさしい人にとってはやさしいが、難しい人にとってはやはり難しいとおもう。
おれには、難しいからやめとこうという選択肢はないので、やさしくても難しくても関係ない。
結局のところ、できるできないさえ関係ない。
結局のところ、できるできないさえ関係ない。
やるしかないからやるだけだ。無駄にはならない。
気付きというのは、一つのドアみたいなものなるほど。