哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

誰の人生も大変に良い。しかしどう使うか分からず結局無駄にする。サティ、マインドフル、アーナーパーナサティ

 
 
 
 昔NHKで観た「松本人志のコントMHK」に、「ラベル」という珍しいショートコントがあった。
自分の目に入るもの全てに(文字通り)ラベルを必死で張っていく強迫神経症の男を演じていた。
 
 
2分30秒あたりにコント「ラベル」がちょっと出てくる。
 
 
 
作者の狙いはわからないが、
 
これはひょっとしてヴィパッサナー瞑想「ラベリング」のパロディか?
 
とその時おもったのを覚えている。
 
おれはヴィパッサナーで実況中継をしていて、ちょっと似たような強迫神経症的気分に悩まされたことがあったからだ。
 
それもあって、手におえないと感じた全方位「ラベリング」はひとまず止めて、まず呼吸だけにサティを集中するアーナーパーナに舵を切った。

 

 

 

苦の循環・アーナパーナ・サティ  ディーパンカラ・サヤレーより

 

  サティ、マインドフル、気付いているという事ですが、何に気付いているかというと、吸う息と吐く息にいつも気付いていて、それをいつも覚えている。いつもそこに心を置いているという事です。もしその気付きがなくなると、簡単に妄想とか雑念とか、あるいは不善な考えがスッと入ってきます。だから気づいているという事が非常に大事なわけです。

 

 

 
人間界に人間として生まれてくるというのはとても難しいことです。なぜなら、人間というのは良いカルマを持って生まれて来るのです。今世において大変に良い人生であって、そのよい人生をどのように使うかということが分からないと、結局それを無駄にしてしまいます。
(以上引用終)



瞑想の目的は抜苦。
仏教の瞑想法は非常に多い。
それぞれの瞑想法には、優劣ではないが、違いがある。
たとえば不浄観は初禅まで、慈・悲・喜の瞑想は三禅まで、捨の瞑想は四禅までと、到達可能な境地が最初から決まっている。
その瞑想を続ける限り、どんだけがんばろうと超えられない原理的境域がそれぞれにある。

 

 過去記事「アーナーパーナサティサマーディ」で引用した、ブッダのことば「悟る前に最も多くいたヴィハーラダンマ」(相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻399頁1324項)に
……………………
私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
 
とある。
この文献の最後は次のようになっている。
……………………
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものにも不浄でないものにも不浄という感覚のある人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものにも不浄でないものにも、不浄でないという感覚のある人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものも不浄でないものも気にしない人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 (この後も、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、そして想受滅を望むなら、心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしないさいと、同じ文章が続きます)。
(以上引用終。強調処理は私です)

 

 
 
 
 
想受滅を望むなら、心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしないさい←教えによれば、究極の悟りは想受滅の直後に来る。つまりアーナーパーナサティサマーディひとつで解脱まで行けると、ブッダは請け合ってるとおもいます。

 

 
(アーナーパーナサティは)初めから涅槃に到達するまで続いている一つの実践です。規範を換える必要はありません。他のカンマターナ(念処)に換える必用はありません。
 
とあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs)
 ペット・ショップ・ボーイズ
「Always On My Mind」
 
(過去記事統合増補編集再録)