哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

獣と同じなら人間に生まれた甲斐はどこにもない

 

 ヴィパッサナー瞑想とアーナーパーナサティを共に勧めるのは矛盾、アーナーパーナはサマタ瞑想だから。という人に。

 

より引用させていただきます。
質問 16
アーナーパーナ(出息、入息)はサマタ瞑想ですか?ヴィパッサナー瞑想ですか?
答え
禅定を得た人であれ、得ていない人であれ出息、入息をイメージや形などを想像し瞑想すればサマタ瞑想になり、ヴィパッサナー瞑想にはなりません。
息の接触、動きを重視して瞑想するとヴィパッサナー瞑想になり、禅定への道サマタにはなりません。
(How to practice Vipassanæ meditation, I )
(引用終)
 
 
 
実際に、自分でやればわかること。
矛盾は何もない。
 
 
 
 
 
 
 
以下、クムダ・セヤドー法話121113
より引用させていただきます。
皆さんに質問します。
自分は老いたくないと思っても、
それがかなえられますか?

自分は病気になりたくないと思っていても、
それがかなえられますか?

自分は死にたくないし、
親しい人も死なせたくないと思っても、
それがかなえられますか?

自分の財産をなくしたくないと思っていても、
それがかなえられますか?

生命であれ、非生命であれ
ずっと存在し続けてほしいと思っても、
それができるでしょうか?

人は、生命であれ、非生命であれ、
物質が永遠にあってほしいと言う願いを持っている。
しかし生老病死という危険がある。

だから、それらを乗り越えるには
涅槃に行くしかない。
そのために涅槃に行くまで一生懸命にやるしかない。
そのためにやる仕事は一つである。
それは瞑想。

どんな仕事をしても、どんなことをしても、
すべて生老病死にかかわってくるし、
自分の持ち物、財産も無くなってしまう。

そう思ったら一生懸命に瞑想して
涅槃に行くことである。
今世で瞑想して涅槃に行けないとしても、
そこに至る準備が必要。
それはアクサラ(不善)を避けることである。

アクサラのカルマを作らないために必要なもの。

1、信(サッダ)
仏法僧を信じる。
カルマの原因と結果を信じる。
「悪いことをすれば悪い結果が来る」
という信がないと不善を犯してしまう。
2、慚(ヒリ)恥じる気持ち
 不善なことを恥じる気持ち。
この気持ちがあれば不善なことをしなくなる。
3、愧(オタパ)恐れる気持ち
 不善なことを恐れる気持ち。
その反対が無慚無愧。
慚愧の念がないと悪を犯し、四悪趣に生まれ変わる。
4、努力、精進(ヴィリヤ)
 善をするのに精進がないと、怠けてしまう。
5、智慧(パンニャ―)
 智慧により善悪の区別ができる。
区別する智慧がないと悪いことをしてしまう。
これらの5つがあれば不善をしなくなるでしょう。
ですから、この五つがいつもあるように
努力してほしいと思います。

Ⅶ.瞑想を成長させるための6項目について
1、健康であること。
元気がないと瞑想もうまく行かない。
2、戒律を守ること。
3、自分より智慧ある人の教えを聞く。
瞑想だけでなく、在家生活でも大事なこと。
4、世間の一般知識を学ぶ。
出家界においても在家界においても
一般知識の多い方が成功しやすい。
5、身口意において善を行うよう努力する。
6、怠けない、不放逸。
在家の生活においても「怠けない」というのは必要。
この6つを守れば瞑想はうまく進む。

Ⅷ.サンマ・パッターナ4項目
1、未だ行ったことの無い不善をしないこと。
2、してしまった不善は二度としないこと。
3、まだしていない善を行うこと。
4、今までして来た善がさらに増えるようにすること。
してしまった不善についてはもう考えない。
思い出すともう1度不善を作っていることになるので
忘れるようにするのが良い。
皆さんは過去世のカルマによって今、
仏教の教えを聞くことができている。
家へ帰ってそういうことを思い出すことによっても
善いカルマを作ることができる。
最後にオワダ・パティモッカを読みます。
セヤドーは皆さんがこのように努力することを願っています。
Sabba papassa akaranam kusalassa upasampada 
Sacitta pariyodapanam etam buddhana sasanam
諸悪莫作 衆善奉行 
自浄其意 是諸仏教 
諸々の不善をせず、諸々の善いことを行い
自らの心を清める、これが諸仏の教えである
[以上引用終。強調はわたしです]




「なにがなんでも生き続けるべきだ。
それを邪魔する奴を、迷わずぶち殺せ。
正当防衛殺人は罪にもならない」

と、こればっかり。

獣となんら変わらない。

(獣の生き方をして「獣になれない私たち」と言うトンチンカン)
 
 
獣と同じなら、人間に生まれた甲斐はどこにもない。

願って叶うことならまだしも、生き続けたいという願いは
どれほど代償を払っても絶対に叶うことがないのに。



 人間が救われるには各自各人が覚醒するしかない。
できてもできなくても、それ以外に道がない。
選択の余地はなく、
逃道・抜道一切なしの一本道だ。
遅かれ早かれ全員が自分でやるしかないということだ。

だったら、
今すぐ始めてさっさと結果出すのが一番カシコだろ。
 

 

 

 クムダ・セヤドー法話から

ポイント中の最重要ポイント(サティビリヤ

だけ引用させていただきます。

3.サティ(念)
・サティとは、気づくこと、憶えていること。
・アーナパーナ・サティの通り、呼吸に「気づく」こと。
・呼吸が入って、出て行くことに「気づく」こと。
・この気づきが無いと、なかなか続けられないと思います。
・この「気づき」があることで、瞑想になります。
・この気づきが無いと、心が集中できないで、いろいろなところにさまよってしまいます。
・心がさまよってしまいますと、心を集中することが、ますますできなくなってしまいます。
・なので、呼吸が入って、出て行くことに気づいていくことが大事です。

8.ビリヤ(精進:努力)

・瞑想するときも努力(精進)が必要です。努力しませんと、瞑想もうまくできるようにはなりません。
・瞑想で大事なことは、三番目の「サティ(念)」と、この「ビリヤ(精進)」の二つが大事です。
・この二つがありませんと、瞑想を続けることができなくなります。
・ですので、瞑想をするときには、サティ(念)とビリヤ(精進)がありませんと、まずできません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

天才、浅川マキ。
「ちっちゃな時から」

 

「♪へまもやれなんだ」って。
 

www.youtube.com

 

 

(過去記事統合増補編集再録)