哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「サティのために生きる」というスタンス


「人はただ念仏しやすいように生きるべきだ」と法然上人は明言している。
普通は「人生のための念仏」と思いこんでいるが、それは間違いで「念仏のための人生」でなければならないとの教えだ。

この人生に対する非常識なスタンスが、極めて重要だとおもう。

おれにとって、この教えは「サティのために生きるべきだ」となる。
サティできない時間は生きているといえない。
この常識はずれのスタンスをなんとか身に馴染ませようと、もっか奮闘中。


ここで一見関係なさそうな澤木老師の言葉を、なぜか連想したのでひとつ。
人間は自分が意識して呼吸しているのでもなければ、自分で意識して心臓を動かしているのでもない。
ただ動いているのである。
人間というものは本当は無念無想で生きているのである。


サティ 「気づき」のこと。
「サティ…は、今という瞬間に完全に注意を集中して自分を客観的によく観察し、「今・ここの自分」に現在進行形で気づいていくことである。妄想に囚われずに今を生きるための実践であり、「サティを入れる」と表現することもある。サティは基本的に瞑想中にするもので、坐禅、経行、立禅の最中に行う。また、歩行時などの日常生活の簡単な動作の最中にサティを入れることもできる。熟練者になると、仕事中や会話中などの複雑な作業をしているときでもサティを行えるようになるとされる。」(Wikipedia〔サティ (仏教)〕http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)より。)

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