哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「念仏のための人生」原文


直前の記事で
「人はただ念仏しやすいように生きるべきだ」と法然上人は明言している。
と書きました。
おれがこの教えを初めて知ったのは
現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべし。
念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてて、これをとどむべし。
いわく、ひじりで申されずば…

という「禪勝房傳説の詞」のなかのものでした。


※100705追記
以前の記事「発想の逆回転」で一度書いたのを忘れてました。
http://blogs.yahoo.co.jp/cyqnh957/27773022.html


他にも少しずつ表現の違った伝承があるようです。
原文を一つ載せておきます。
現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。

一所にて申されずば、修行して申すべし。
修行して申されずば、一所に住して申すべし。

ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
在家にて申されされずば、遁世して申すべし。

ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行して申すべし。
共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。

衣食適わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。

妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。

所知所領も、念仏の助業ならば大切なり。
妨げにならば、持つべからず。

『勅伝』巻四十五、「十二問答」
いい意味でいいかげんだ、おおらかだと感じる人が多いようですが、そういうことではないのです。
「念仏のための人生」というスタンスから発せられた当然自然の言葉で、良い意味でも悪い意味でも「いいかげんさ」は微塵もありません。


[100411追記]
「禪勝房傳説の詞」には
衣食住の三は念仏の助業なり。これすなわち、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。…
もし念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり、万事かくのごとし。

の言葉もあり、論旨極めて明瞭です。
念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。」の教えを迂闊に読み過ごしてはいけません。「念仏のための人生」というスタンスは簡単には身に馴染まないからです。
ちなみに「衣食住の三は三悪道なり。…三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」と断言し実行した一遍上人は、この法然上人の教えも知った上で「すべて捨てる」決意をしたのだとおもいます。
(過去記事「一遍」http://blogs.yahoo.co.jp/cyqnh957/49086643.html参照してください)

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