哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

山本周五郎はイデアリストだとおもう。

 

今日は連日の強寒風が和らいだので、自家製弁当持参で隣町の大型商業施設までチャリ漕ぎ。
昼前に到着。イートインスペース奥の定位置に座り、いつも通りyoutubeの朗読を聴きながらすごす。

このところ山本周五郎の小説を続けて聴いてる。今日はまず「裏の木戸はあいている


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山本周五郎の、世の常識に囚われない物語を堂々と描く勇気はすごいとおもう。ただ昨日記事の「雨あがる」にもいえることだが、正しさが行き過ぎて独りよがり感出ちゃってる。なんかキリスト教的バタくさささえ感じる。

 

 

切りのいいところで、弁当にする。
今朝チャチャッと作ったサンドイッチ

と、施設内スーパーで買った惣菜。

 

 

食間食後も、続けて周五郎作品を聴く。

日本古来の夫人の美質を活写したと評判の高い名作「日本婦道記」から「梅咲きぬ」


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これなんかでも、日本婦道というより、むしろキリスト教の現実離れした女性道徳を彷彿させる。

 

周五郎のこのような反リアリズムについては、ウィキペディア山本周五郎」に

…周五郎作品の特徴を『聖書』に準えたのは映画監督の篠田正浩。篠田は周五郎が庶民の哀感のようなところにスポットを当てたとする見方に対して「それは嘘です。あの人は庶民なんか信じていないでしょう。そういう読まれ方をされていることが口惜しかったのではないですか」とした上で周五郎作品に通底する「聖なるものといえる存在」を指摘。「むしろキリスト教的な人間の、この世に聖なるものがなかったら人間は存在する理由がない、という前提が山本周五郎にはある。聖なる心をいだいていながら、汚辱にまみれた世の中で、まるで見えていないものを発掘するんです。だから、観念小説ですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想小説といってもいいぐらいでしょう。聖書のように書いているんじゃないかな、物語をね」と独自の周五郎像を披露している。

とある。

 

 

 

 

夜は、何度か惨敗してる自家製回鍋肉リベンジ。

今回キャベツと豚肉を油通ししてから炒め合わせたが、なお店の味には程遠い。

ピーマンなしで見た目も悪い。味は許容内で完食した。

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)


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