哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

邦画『この国の空』

 

 

 

 

 以前書いたが、満島ひかり主演『海辺の生と死』を観た時にも同じことをおもった。

 

これは反戦映画にはなっていない。しかし面白かった。と。

 

その理由も同じだ。

 

 

たとえば今のテレビ番組を見ればすぐわかるが、善悪美醜も喜怒哀楽もすべてがふやけたイミテーションだ。
苛烈な戦時下では、イミテーションの存在余地は無くなり、善悪美醜も喜怒哀楽もすべてがいや応なく本性剥き出しになる。その非日常のヴィジョンは平時の人間を強く惹き付ける。
製作者の意図はどうあれ、そういうことを描いた作品になっているとおもう。

 

坂口安吾「堕落論」に、こうある。
…昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。…爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。…
… あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。…
…偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない

 (引用終)

 

 

敗戦の表情はただの堕落にすぎない…つまり平時の堕落より戦時のリアルを良しとするのが安吾の結論かというと、そうではない。
 
真反対だ。

安吾はすぐにこう続ける。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎない
(引用終)
 
 
おれは、この安吾の結論に激しく同感する。
 
安吾は名著「堕落論」を次の言葉で締め括っている。

 …堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

(引用終) 
 
 
 
 
ちなみに
この映画は、
 
反戦映画でもないし、
恋愛映画でもない
 
という意味のことを、主演の二階堂ふみは言っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(過去記事統合増補編集再録)