(真宗聖典 仏説無量寿経巻下 曹魏天竺三藏康僧鎧訳より引用します)
仏、阿難に告げたまわく、「…あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん、心を至し回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」
(引用終)
釈尊は『大無量寿経』(下)で十八願成就の文を明かしている。
つまり、全四十八願のうちで、信者にとって一番重要なのは十八願だと、誰が読んでもすぐ気づくように書いてある(とおれは思う)。
では、それを百も承知二百も合点していたはずの親鸞聖人は、なぜ「三願転入」という苦労の多いまわり道をしなければならなかったのか?
いきなり十八願を信じて救われる人が、本当にいるのか…正直、おれには分からない。
「三願転入」することによって、初めて十八願にたどりつく可能性が開けるタイプの人がおおぜいいて、このタイプの人にとって「まわり道」は実はまわり道ではなく、必然的な一本道なのだと思う。
おれには、十九願的な修行から入っていく道だけが与えられている気がする。(しかも、その入り口辺りでうろうろしているのが現状だ。やがて二十願の世界に移るとか、さらに十八願の世界に至るとか言われても、全くリアリティーがない)
【大無量寿経】
浄土三部経の一つ。
「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」(教行信証・教)
親鸞聖人は『大無量寿経』を、三部経の中心に据えていたことは、この宣言から明らかだと思う。
【三願転入】
十九願から入って→二十願→十八願に到達した親鸞聖人の宗教体験。
【十九願】
たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。(修諸功徳の願)
【二十願】
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。(不果遂者の願)
【十八願】
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(至心信楽の願)
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