長年馴れ親しんだ生活と社会の無意味さに気づいたら、
在家の出家をする必要がある。
具体的には
「今ここに気づく」ヴィッパッサナーの専心実行だ。
この決意ができないなら、無意味な生活と社会に、あらためて馴合う以外の選択肢はない。
在家の出家をする必要がある。
具体的には
「今ここに気づく」ヴィッパッサナーの専心実行だ。
この決意ができないなら、無意味な生活と社会に、あらためて馴合う以外の選択肢はない。
過去を追ってはならない、未来を待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを強く生きねばならない。
(引用終)
今生きている人間は例外なく息をしている。
自分の吸う息吐く息を意識できないほど愚かな人間などいない。
釈尊は、呼吸をただ観察することを説いた。
自分の吸う息吐く息を意識できないほど愚かな人間などいない。
釈尊は、呼吸をただ観察することを説いた。
それは唯一の現実である【今この瞬間】を強く生き始めることだ。
エックハルト・トールは博学多識で仏教にも精通している。自分意識が錯覚に過ぎない事実とその意味を、深く確実に知る人だ。
彼は【今ここ】の重要性を噛んで含めるように易しく説いている。
【今この瞬間】に気づく一番良いやり方は、今あなたの吸う息に気づくことです。今吐く息に気づくことです。
アーナーパーナサティ(呼吸の観察)は坐禅堂のようなそれらしい場所に行って足を組んで座り、体を真っ直ぐに維持しないとできないのかというと、そんなことはない。
形式を墨守して回数を減らすよりも、ほんの少しの機会も疎かにせずに呼吸を意識しようとする気力が大切だ。
たとえば風邪などの病気で起き上がることができない日、寝たままで呼吸にサティを入れれば大変効果的で良い経験になる。
形式を墨守して回数を減らすよりも、ほんの少しの機会も疎かにせずに呼吸を意識しようとする気力が大切だ。
たとえば風邪などの病気で起き上がることができない日、寝たままで呼吸にサティを入れれば大変効果的で良い経験になる。
※
これはブッダが修行熱心な弟子達に、呼吸の観察だけで解脱までたどり着く道筋を一気に説いたものなので、呼吸瞑想法全体の極度の要約、いわば本の見出しの列挙のような内容になっている。
これだけで理解できる人はまずいないので、わからなくてもがっかりしないように。
HP『ターン・プッタタート』「悟る前に最も多くいたヴィハーラダンマ」より引用
…長く息を吐いたら、息を長く吐いたとハッキリと知り、長く息を吸ったら、長く息を吸ったとハッキリと知ります。
短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知ります。
彼は当然「すべての体を知って息を吐く」、「すべての体を知って息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「カーヤサンカーラ(体を作るもの。身行。この場合は特に呼吸のこと)を静めて息を吐く」、「カーヤサンカーラを鎮めて息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「スッカを知り尽して息を吐く」「スッカを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを知り尽して息を吐く」「チッタサンカーラを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを鎮めて息を吐く」「チッタサンカーラを鎮めて息を吸う」と心して練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を喜ばせて息を吐く」「心を喜ばせて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を安定せて息を吐く」「心を安定させて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を解放して息を吐く」「心を解放して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常を見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「薄れるダンマを見て息を吐く」「薄れるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「消滅であるダンマを見て息を吐く」「消滅であるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「返却するダンマを見て息を吐く」「返却するダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて、このように練習します。
比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。
比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
(以上引用終)短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知ります。
彼は当然「すべての体を知って息を吐く」、「すべての体を知って息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「カーヤサンカーラ(体を作るもの。身行。この場合は特に呼吸のこと)を静めて息を吐く」、「カーヤサンカーラを鎮めて息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
彼は当然「スッカを知り尽して息を吐く」「スッカを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを知り尽して息を吐く」「チッタサンカーラを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「チッタサンカーラを鎮めて息を吐く」「チッタサンカーラを鎮めて息を吸う」と心して練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を喜ばせて息を吐く」「心を喜ばせて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を安定せて息を吐く」「心を安定させて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を解放して息を吐く」「心を解放して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常を見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「薄れるダンマを見て息を吐く」「薄れるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「消滅であるダンマを見て息を吐く」「消滅であるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「返却するダンマを見て息を吐く」「返却するダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて、このように練習します。
比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。
比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
アーナパーササティによって、ほぼ自動的に解脱に至るまでの非常に長いアウトラインをブッダが語っているが、やることは最初から最後までたったひとつだけだ。
自分の吸う息吐く息にサティを入れる
という単純作業を倦まず弛まず続けることだけだ。
自分の吸う息吐く息にサティを入れる
という単純作業を倦まず弛まず続けることだけだ。
(おまけ)
ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」を昔初めて耳にした瞬間から、おれはこの曲が好きになった。
今ではわかりやすく和訳して歌ってる動画もアップされている。
これが見事な内容で、おれはますます「アローン・アゲイン」が大好きになった
(自分がごく少数派なのは自覚しとります)
とうぜんオリジナル聴きたい。
(過去記事統合増補編集再録)