哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

呼吸―思考を中断し、今ここに戻る―

 今生きている人間は例外なく息をしている。
自分の吸う息吐く息を意識できないほど愚かな人間などいない。

釈尊は、呼吸をただ観察することを説いた。

 

 エックハルト・トールは博学多識で仏教にも精通している。
自分意識が錯覚に過ぎない事実とその意味を、深く確実に知る人だ。
 彼は呼吸観察の重要性について易しく説いている。

 


朗読 『ニュー・アース』 #24  エックハルト・トール


 アーナーパーナサティ(呼吸の観察)は坐禅堂のようなそれらしい場所に行って足を組んで座り、体を真っ直ぐに維持しないとできないのかというと、そんなことはない。

 形式を墨守して回数を減らすよりも、ほんの少しの機会も疎かにせずに呼吸を意識しようとする気力が大切だ。

 たとえば風邪などの病気で起き上がることができない日、寝たままで呼吸にサティを入れれば大変効果的で良い経験になる。





 ブッダのことば

 これはブッダが修行熱心な弟子達に、呼吸の観察だけで解脱までたどり着く道筋を一気に説いたものなので、呼吸瞑想法全体の極度の要約、いわば本の見出しの列挙のような内容になっている。
 これだけで理解できる人はまずいないので、わからなくてもがっかりしないように。
HP『ターン・プッタタート』「悟る前に最も多くいたヴィハーラダンマ」より
…長く息を吐いたら、息を長く吐いたとハッキリと知り、長く息を吸ったら、長く息を吸ったとハッキリと知ります。

短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知ります。

彼は当然「すべての体を知って息を吐く」、「すべての体を知って息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

彼は当然「カーヤサンカーラ(体を作るもの。身行。この場合は特に呼吸のこと)を静めて息を吐く」、「カーヤサンカーラを鎮めて息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、

 彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、

 彼は当然「スッカを知り尽して息を吐く」「スッカを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「チッタサンカーラを知り尽して息を吐く」「チッタサンカーラを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「チッタサンカーラを鎮めて息を吐く」「チッタサンカーラを鎮めて息を吸う」と心して練習し、

 彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「心を喜ばせて息を吐く」「心を喜ばせて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「心を安定せて息を吐く」「心を安定させて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「心を解放して息を吐く」「心を解放して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常を見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「薄れるダンマを見て息を吐く」「薄れるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「消滅であるダンマを見て息を吐く」「消滅であるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「返却するダンマを見て息を吐く」「返却するダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて、このように練習します。


 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。

 比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
  (以上引用終)




 アーナパーササティによって、ほぼ自動的に解脱に至るまでの非常に長いアウトラインをブッダが語っているが、やることは最初から最後までたったひとつだけだ。
自分の吸う息吐く息にサティを入れる
という単純作業を倦まず弛まず続けることだけだ。

 しかし、やってみると、これが易往而無人(簡単なのに、やり遂げる人はめったにいない)だとわかる。

この時、助けになるのが苦聖諦だと気づく。
それは、
ブッダがなぜ真っ先に苦聖諦を説いたのか、その深い理由
が初めて明らかになる瞬間だ。


 呼吸瞑想は難しくない。
ただ自分のしている呼吸に気づけばいいだけ。
長く息を吸ったら『長く息を吸った』と知り、長く息を吐いたら『長く息を吐いた』と知る。短く吸ったら『短く吸った』と知り、短く吐いたら『短く吐いた』と知る。これだけだ。

 

 ところが人間は、この簡単な法が、簡単すぎてできない。何度やってもたちまち挫折する。
難しいと「難しすぎてできない」と言うくせに、簡単だと「簡単すぎてつまらん。アホらしくてできない」と言い訳する。

 

さて「自分の呼吸に気づく」という、こんな簡単なはずのことができない原因は何か。


 ろくにできないのは、サティを本当に成功させる必須の前提、苦聖諦の理解が抜け落ちているからだ。
「今ここ」に気づき続ける実践・サティの持続に絶対必要な特別な活力は、苦聖諦を学ぶことでしか得ることができない。


釈尊は人類最高の瞑想の達人だが、弟子に対しては、まず一切皆苦の真実に気づかせることを第一としていた。

自らの体験から得たその指導法は、45年間説法を続けて、生涯変わっていない。
修行者は、最初、漠然と瞑想するより、四苦八苦という具体的な事実にはっきり気づくことが、最も必要だという明確なメッセージだ。


 有名な「 毒矢の喩え」の哲学青年マールキヤプッタは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。

マールキヤプッタは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。苦聖諦の気づきがなかった人だったのだ。
「毒矢の喩え」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールキヤプッタが自分にささっている矢に気づく、苦聖諦に気づく話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。

日常人は死んでもなんとなくまだあとがある気分でいるから、それでサティを実践しても三日坊主にもなれずに終わる。
じっさい、あなたの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。





 大乗仏教は当初から苦聖諦カットの仏教を志向していたとおもう。途中少々の揺り戻しは起きたが、今でも苦聖諦は脇に退けられ積極的に説かれることはない。
理由は単純で、ウケないからだ。
稀な例外を除いて在家信者は、一切皆苦を理解したがらない。
ごまかしなく説けば、怒って聞かないだろう。
一切皆苦(苦聖諦)に対する世間の本能的嫌悪感と恐れと無理解が、この問題の根底にある。

そのため、大乗仏教は、やがて苦等の四諦の法を、きれいさっぱり忘れてしまうだろう。それは、一般信徒主導の集団である限り、避けられない結果だ。
苦聖諦を否定し釈尊絶対神にまつりあげ、稀有の仏法を、キリスト教の出来損ないのような、身勝手で凡庸な信仰に、千年以上の時をかけて少しずつ執拗にずらし替えてきた。

苦聖諦の体得がなければサティは不可能となり、サティの実践なき大乗仏教は壮麗なる文学と化す。



 大多数の人々は「我がある。だから死はありえない」と、初めから破綻した考えに凝り固まっている。死の否定できないことは自明だからだ。
我そのものを疑うという逆転の発想ができないために追い詰められた結果、背に腹はかえられぬ切実が事実も道理も押しのけてどんな無法でも通してしまう。
すなわち(自分だけは死んでも生きている)と妄信する。
不滅の魂や大我や唯一神やらはそのための道具に過ぎない。

「俺、俺のもの」と死は、けっして共存できない。
ほとんどの人は「俺、俺のもの」がなにより大事なので、不滅の魂などでっち上げ、無理くりに死を無いことにしている。彼らは、そうするしかないと頑なに思いこんでいるのだ。

この自分で建てた妄信の壁に阻まれて、釈尊の教えは処世訓のレベル以上わからず、サティの意味もかたきしわからないのでやる気も皆無。
もっともこれはこれで無理のない話だ。「邪に育った心は、自分で自分に仇敵のように振舞う」という釈尊の言葉どおり。

 しかしここで、死こそ確実だというあたりまえの事実を真っすぐ認める勇敢な者がいれば、彼は必然的に「俺、俺のもの」こそが怪しいと気づく。
そう気づかせてくれた死等の苦は、実は聖だという鮮やかなパラダイムシフトが起きる。
苦聖諦は、苦しみ「が」救ってくれるから苦諦と呼ばれている。人生楽ありゃ苦もあるさでは、そこそこいい人生だとおもってるわけで、そんな人には仏教の入口扉さえ開かないから、サティの価値もまるっきりわからない。

 

 無我は、死ぬその人がいないから、死もない。
無我が仏教の核心だ。
ただし、
自分を捨てる道は最善だが、半端にやるとたちまち最悪になるので要注意。
責任を回避しながら私欲を満たす手段として、滅私奉公等の無我風瞞着言辞を食わせるヤカラ。
中途半端に自分を捨てる人間は、ガリガリの利己主義者より、はるかに社会に害をなす。



 色・受・想・行・識を厭う気持ちに、真実なれるかなれないかが、釈尊の教えに近づくか遠ざかるかの分水嶺だとおもう。

自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで、色・受・想・行・識に執着するのが性だから、これは、確かに容易なことではない。

色受想行識を厭わなければサティは実践できない。

色受想行識を厭うには、動物本能を制圧する特別例外的な強いエネルギーが必要で、それは苦聖諦を学んだ者のみに与えられる。



 「苦聖諦」は月を指す指。指だけ詳細に研究するが、ほんとうは月である苦聖諦を一度も見ようとしない人が多い。
苦聖諦の土台の上で行われる「今ここ」に気づく努力をサティと呼んでいる。
サティを実践してもたちまち挫折するのは、苦聖諦の理解が言葉だけで内容が無いからだ。

ブッダとは生まれた時代も国も人種も異にして、仏説も苦聖諦も聞いたことがなくても、人生において苦聖諦の内容を体得した人は少なくない。

当たり前のことだが、言葉でなく内容を学ぶ必要がある。


 結論は、

 苦聖諦を学んでのみ得ることができる特別例外的な強い活力で

サティを実践する。

この一事だ。




 

 

(過去記事統合編集増補再録)