哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

動中禅とはなにか

スマナサーラ長老「不放逸とは何か」より引用します。
毎年12月の半ばから上野のアメ横で魚を売りまくっている兄ちゃんたちは、たとえ喉から血が出るまで商売に励んでも不放逸だとはいえません。仏教から見ると、怠け者になります。
 
 釈尊の最後の言葉は「appamâdena sampadetha」怠ることなく励みなさいです。
最後の言葉ですから、決して死にもの狂いで、目的はなんでもいいから、がんばりなさいと言う意味にはなりません。
Appamâda は仏教の実践、修行そのものを意味するのです。
ですから仏道=appamâdaです。仏道と言えば、苦しみをなくす方法なのです。(これは初期仏教の定義です。大乗仏教の定義ではありません。)苦しみはこころの汚れ(煩悩)があるから生まれるのです。ですから、こころの汚れを断つための手段はまとめてappamâda なのです。布施をしたり、他に親切にしたりする当たり前の行為も、戒律を守ったり道徳を重んじることも、冥想することも appamâda なのです。悟るための努力は appamâda なのです。
以上引用終。

 

 
 
 

 おれは昔、職場に行く前の早朝や休日に曹洞宗の寺に通って坐禅のまねごとをやってた短い時期がある。
45分だったか1時間だったかの坐禅を2回やり、間に経行(きんひん)というものがあった。
足の痺れや眠気を取り除くために、できるだけ定を保ったまま
一息半歩
で歩く重要性を詳しく指導された。




 その後リタイア生活に入ってから、東京の弟の家に遊びに行った機会に、近くのテーラワーダ寺院に出向き、
ウォーキング・メディテーション
(歩くヴィパッサナー) 

の説明と実践の手ほどきを受けた。
その時、おれは禅寺でやっていた経行の意味の核心を初めて知ったと感じた。禅寺での教えは間違いではないのだが、芯を食っていなかった。 インド→中国→朝鮮→日本の伝言ゲームの間に、微妙で深刻な意味のズレが生じていたのだと思った。

 経行における意味のズレはまだ微妙でそれほど深刻ともみえないが、このちょっとしたズレが原因となり、やがて「動中禅」の意味と解釈に決定的に深刻な間違いが現れるという結果を導いたと思う。 
 





 「動中禅とはなにか」
 


 古来禅門で
動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す

大慧宗杲禅師(日本では白隠禅師のこの要旨引用で有名)



と教え、いわゆる行住坐臥にかかわらない動中禅を重んじてきた。
そのため坐禅だけでなく経行、作務も立派な修行となる。



しかし日常生活、日々の仕事に真剣に命がけで取り組むのが在家の動中禅だと主張するなら、それは間違いだ。意味のズレが酷すぎて別物になってしまうからだ。



 では動中禅とは端的に言って何なのか。
 
 
 
 
動中禅は
ヴィパッサナー実践だ。
 
 
 
 
 
 
 ちなみに、チャルーン・サティはその具体的な方法の一つだ。


 
 
 
 
 仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけだ。
 
 








「人生最優先のタスク 「怠けるな」のほんとうの意味を知る」 
 
 ブッダの遺言「怠けるな(不放逸)」のほんとうの意味を、あなたは知っていますか?
 
サティ(気づき)がない時、何をどれだけ一心不乱に命がけでやろうと、すべて放逸です。
サティがないなら、どれほど熱心に真面目に仕事しても、怠けているのです。
 
世の常識と鮮明に違います。
 
この違いを明らかにすることが最優先のタスクです。よくよく考えれば、これこそ人生最大の真理だとわかるからです。
 
 あらゆる瞬間にサティを保持する不断の努力のみが、不放逸と認められる。これが不放逸の意味です。
 


 
 
 
 
 
 
 仏教徒は何事もサティを維持して行うべきです。少なくともそうあろうと努力するのが仏教徒です。布施も戒律も道徳も冥想も、サティをもって為される時、仏法になります。
 
「不放逸」についてスマナサーラ長老の明解な説法があります。…ブッダ独自の用語「不放逸」は、日々の仕事を一生懸命やる事ではない。不断のサティのことだと。→マーヤーデーヴィー精舎関西定例瞑想会「Q不放逸ということば」 (左のリンクをクリック。15分ほどの説法が聴けます)
 
 
結論を言います。
 
仏道=不放逸
不放逸=サティ

ゆえに
仏道=サティ
です。
 
 
※ついでにもう一つだけ。
 有限の修行時間を無駄に奪われない用心をしましょう。
仏道=苦しみをなくす方法という定義を常に忘れなければ、世界で切りなくつづく有難そうな戯論に、もう決して惑わされない。それらは連ねられた言葉が絢爛高大なだけの、ただのゴミの山だとすぐ気づけます。
 
絢爛高大なゴミの山を無視してください。人生を無駄にしないために。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 実践。 
 スローモーションで歩きラベリング、
「右足・上げる」「出す」「下ろす」

「左足・上げる」「出す」「下ろす」


で、しばらくやってみたが、ちょっと慣れて余裕が出てくるとラベリングの隙間にいっぱい雑念が入る。


それで、動きをスローモーションにして(超スローモーションでもふらつかないために歩幅は小さくした。いわゆる一息半歩の足運び)

「右足・上げ始める」「上げる」「上げる」「上げ終わる」
「出し始める」「出す」「出す」「出し終わる」
「下ろし始める」「下ろす」「下ろす」「下ろし終わる」

「左足・上げ始める」「上げる」「上げる」「上げ終わる」
「出し始める」「出す」「出す」「出し終わる」
「下ろし始める」「下ろす」「下ろす」「下ろし終わる」


などと工夫してみる。
ラベリングの間に余裕がなくなったので、雑念が入りにくくはなった。


まあ、これも慣れたら、同じ問題が出るが。
(習熟して速い動作にもサティがついていけるようになれば、動作を速めて雑念を阻止する方法もとれる)



※「ヴィパッサナー瞑想



(過去記事編集再録)