哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

一日作なささざれば一日食らわず 動中禅

スマナサーラ長老の禅語提唱(九)一日不作、一日不食 作務の精神

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一日さざれば一日食らわず(百丈懐海禅師)

 

百丈禅師は自分のことを言ったのであって、

「働かざる者食うべからず」という意味ではありません。

 

しかし、ブッダはこういう後々誤解をまねくような発言はしなかった。

寺院経営上やむを得ない事情があったとはいえ、ブッダが堅く禁じた生産手段を持ったことから、解決困難な問題が生じてくる。

 

やむを得ず始めた生産活動が、やがて

 

実はこれこそ動中禅であり至高の仏道修行だ

 

と強弁されるまで、長年月を必要としない。

 

 

 「動中禅とはなにか」 


動中の工夫は
静中に勝ること
百千億倍す
大慧宗杲禅師(日本では白隠禅師のこの要旨引用で有名)

動中の工夫

とはサティのことだ。


後世の弟子達は、

全ての仏法に例外なく含まれる核心部分サティを無視し、すぐ忘れ、
単純に日々の労働を坐禅にも勝る修行だとしたいために、
いわゆる行住坐臥にかかわらない動中禅を称揚した。

この怪しい主張がさらに加上され、在家に向かって、日常生活、日々の仕事に真剣に命がけで取り組むのも立派な動中禅だと教える。


ここまでくると歴々たる間違いだ。
意味のズレが酷すぎて別物になってしまうからだ。

 

 

 

 では動中禅とは端的に言って何なのか。

 
 
 
 
動中禅は
ヴィパッサナー実践だ。
 
 
 
 
 
 
 ちなみに、チャルーン・サティはその具体的な方法の一つだ。


 
 
 
 
 仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけだ。
 
 
たとえ血を吐くほど死に物狂いに仕事をしても、そこに不断のサティがあれば不放逸となるが、サティがないときはただの煩悩でしかない。







「人生最優先のタスク 「怠けるな」のほんとうの意味を知る」 
 

 ブッダの遺言「怠けるな(不放逸)」のほんとうの意味を、あなたは知っていますか?

 
サティ(気づき)がない時、何をどれだけ一心不乱に命がけでやろうと、すべて放逸です。
サティがないなら、どれほど熱心に真面目に仕事しても、怠けているのです。

 
世の常識と鮮明に違います。
 

この違いを明らかにすることが最優先のタスクです。よくよく考えれば、

 

これこそ人生最大の真理だ

 

とわかるからです。

 
 あらゆる瞬間にサティを保持する不断の努力のみが、不放逸と認められる。これが不放逸の意味です。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

Muddy Waters & The Rolling Stones - Baby Please Don't Go - Live At Checkerboard Lounge

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(過去記事統合増補編集再録)