哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人生最優先のタスク 「怠けるな」のほんとうの意味を知る

 ブッダの遺言「怠けるな(不放逸)」のほんとうの意味を、あなたは知っていますか?

サティ(気づき)がない時、何をどれだけ一心不乱に命がけでやろうと、すべて放逸です。
サティがないなら、どれほど熱心に真面目に仕事しても、怠けているのです。

世の常識と鮮明に違います。

この違いを明らかにすることが最優先のタスクです。よくよく考えれば、これこそ人生最大の真理だとわかるからです。

 あらゆる瞬間にサティを保持する不断の努力のみが、不放逸と認められる。これが不放逸の意味です。




以下スマナサーラ長老「不放逸とは何か」より引用
…毎年12月の半ばから上野のアメ横で魚を売りまくっている兄ちゃんたちは、たとえ喉から血が出るまで商売に励んでも不放逸だとはいえません。仏教から見ると、怠け者になります。

 釈尊の最後の言葉は「appamâdena sampadetha」~怠ることなく励みなさい~です。
最後の言葉ですから、決して死にもの狂いで、目的はなんでもいいから、がんばりなさいと言う意味にはなりません。
Appamâda は仏教の実践、修行そのものを意味するのです。
ですから仏道=appamâdaです。仏道と言えば、苦しみをなくす方法なのです。(これは初期仏教の定義です。大乗仏教の定義ではありません。)苦しみはこころの汚れ(煩悩)があるから生まれるのです。ですから、こころの汚れを断つための手段はまとめてappamâda なのです。布施をしたり、他に親切にしたりする当たり前の行為も、戒律を守ったり道徳を重んじることも、冥想することも appamâda なのです。悟るための努力は appamâda なのです。
引用終。


[同日追記]
 仏教徒は何事もサティを維持して行うべきです。少なくともそうあろうと努力するのが仏教徒です。布施も戒律も道徳も冥想も、サティをもって為される時、仏法になります。


「不放逸」についてスマナサーラ長老の明解な説法があります。…ブッダ独自の用語「不放逸」は、日々の仕事を一生懸命やる事ではない。不断のサティのことだと。→マーヤーデーヴィー精舎関西定例瞑想会「Q不放逸ということば」 (左のリンクをクリック。15分ほどの説法が聴けます)[追記終]





仏道=不放逸
不放逸=サティ

ゆえに
仏道=サティ
です。


※ついでにもう一つだけ。
 有限の修行時間を無駄に奪われない用心をしましょう。
仏道=苦しみをなくす方法という定義を常に忘れなければ、世界で切りなくつづく有難そうな戯論に、もう決して惑わされない。それらは連ねられた言葉が絢爛高大なだけの、ただのゴミの山だとすぐ気づけます。