直感で、いきなり結論(答え)をつかみとれることがある。
(直観ゆえに本人は真理だと信じるが、高次元のステレオタイプの場合もある。
※ 不滅の魂に代表される宗教的直観の多くは、この高次元のステレオタイプで、世界中のあらゆる時代で類型が見られ大衆の共感を得やすく真理と見分けがつきにくい)
しかし、その場合、結論に至るプロセスを示すことはできない。
プロセスがなければ、自分は確信しているその正しさを、多くの人に納得させることはできない。
幸運にも、自分同様に直感で答えを知った人と会えば、二人の間でのみ話が通じる。
多くの人を説得するためのプロセス(証明物語)は、時と場所の制約を受ける中で後から紡ぎだされる。
それは、たとえば、時と場所によってプラトン哲学になったり、ユダヤ教になったり、イスラム教になったりする。
上記文中の
「不滅の魂に代表される宗教的直観の多くは、この高次元のステレオタイプで、世界中のあらゆる時代で類型が見られ大衆の共感を得やすく真理と見分けがつきにくい」
に関しては1年前に以下の文章をupしている。
「不死人間伝説の正体」
みな人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬるならひありとは
(新古今和歌集 前大僧正慈円)
この歌をほめて「人は必ず死ぬという誰でも知っているあたりまえのことを詠むのは案外難しい」といった評価がある。
それは前提がちょっと違う、むしろ逆だろとおもう。
人が必ず死ぬことは、誰も知らない。
ちっともあたりまえではない。
だから、詠むのが難しいのだとおもう。
自分も含めて誰も知らないが、自分はその「誰も知らないという一点」だけには、はっきり気づいているという自覚が、慈円にこの歌を詠ませた、とおれはおもう。
「人が必ず死ぬことは、誰も知らない」とおれが言うと「そうだよ!長い人類史上一人くらい死ななかった人がいたって不思議じゃないよね」などと応じる人がいて唖然とさせられる。
しかも、このイッちゃってる反応さえ決して少数派のものとはいえない。
それほどに、死に関する人間の混乱迷走ぶりは、いたましいのだ。
古来語り継がれる「生き続ける人間伝説」は、人類のこの根深い迷妄を反映したものだとおれはおもう。
人はみな「自分は肉体の中に居る不滅の魂で、肉は死んでも自分は魂だから死なない」とおもっている。
慈円のみな人の知り顔にして知らぬかなとは、正にこの迷妄を指摘しているのだ。
これが急迫の大問題だ。
この迷妄が、いじめから戦争に至るすべての争いの根本原因だから。
こういう問題は一般論ではなく自身のこととして受け取らないと時間の空費になってしまう。
「人は必ず死ぬ」の意味は「自分が今死ぬ」ということだ。
他人事や先の話ではない。ことさらそうおもえというのでもない。それが事実そのものだ。
不老不死永遠不滅のわが魂などというエゴイスティックなしろものは「死にたくない自分」の投影に過ぎない。(梵我一如、本来本法性天然自性身等も同様の我妄想)
ブッダの毒矢のたとえの教えが(哲学者の証明なんかより)重要だとおもう。
遠い将来、科学の発達によって人が死ななくなったらどうなるかという急迫ならざる問題も一応考えることはできる。
結論だけ言えば…単純に問題が一層深刻になるだけだとおもう。
慈円は『愚管抄』の作者として知られる鎌倉時代の天台座主。「当時異端視されていた専修念仏の法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は1181年9歳の時に慈円について得度を受けている」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86参照
(おまけ)
ボニー・タイラー
「ヒーロー」
ジャニス・ジョプリンに影響を受けたらしいけど、
内面からのソウルはあまり感じられない。
日本では麻倉 未稀のカヴァーもヒットしました。
(過去記事統合増補編集再録)