みな人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬるならひありとは
(新古今和歌集 前大僧正慈円)
この歌をほめて「人は必ず死ぬという誰でも知っているあたりまえのことを詠むのは案外難しい」といった評価がある。
それは前提がちょっと違う、むしろ逆だろとおもう。
人が必ず死ぬことは、誰も知らない。
ちっともあたりまえではない。
だから、詠むのが難しいのだとおもう。
自分も含めて誰も知らないが、自分はその「誰も知らないという一点」だけには、はっきり気づいているという自覚が、慈円にこの歌を詠ませた、とおれはおもう。
「人が必ず死ぬことは、誰も知らない」とおれが言うと「そうだよ!長い人類史上一人くらい死ななかった人がいたって不思議じゃないよね」などと応じる人がいて唖然とさせられる。
しかも、このイッちゃってる反応さえ決して少数派のものとはいえない。
それほどに、死に関する人間の混乱迷走ぶりは、いたましいのだ。
古来語り継がれる「生き続ける人間伝説」は、人類のこの根深い迷妄を反映したものだとおれはおもう。
人はみな「自分は肉体の中に居る不滅の魂で、肉は死んでも自分は魂だから死なない」とおもっている。
慈円のみな人の知り顔にして知らぬかなとは、正にこの迷妄を指摘しているのだ。
これが急迫の大問題だ。
この迷妄が、いじめから戦争に至るすべての争いの根本原因だから。
こういう問題は一般論ではなく自身のこととして受け取らないと時間の空費になってしまう。
「人は必ず死ぬ」の意味は「自分が今死ぬ」ということだ。
他人事や先の話ではない。ことさらそうおもえというのでもない。それが事実そのものだ。
不老不死永遠不滅のわが魂などというエゴイスティックなしろものは「死にたくない自分」の投影に過ぎない。
ブッダの毒矢のたとえの教えが(哲学者の証明なんかより)重要だとおもう。
遠い将来、科学の発達によって人が死ななくなったらどうなるかという急迫ならざる問題も一応考えることはできる。
結論だけ言えば…単純に問題が一層深刻になるだけだとおもう。
慈円は『愚管抄』の作者として知られる鎌倉時代の天台座主。「当時異端視されていた専修念仏の法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は1181年9歳の時に慈円について得度を受けている」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86参照
(過去記事編集再録)