哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

適応するな。応答しろ!

平均人は、自分の置かれた状況にむやみに適応しようとする。
適応さえうまくいくと、それで我が事成れりと思いこむ。
自分がない。
レベルの低い、悪い意味で無私なのだ。
まず自分を持て。
自分を持って状況に応答するべきだ。
人間が生きるとはそういうことなのだから。
悪い意味で自分がない人間は、適応してから応答しようとする。
そんな仕組まれた予定調和の応答は偽物であり、したがって適応も本物ではないのだ。
自分のちゃんとある人間は応答して、結果として適応することがある。
適応すべきでない状況には、もちろん適応を拒否する。
応答は本物であり、したがって適応も(たとえ不適応に見えても)本物である。

仏教に、こういうストーリーがある。
片目のつぶれたサルばかりの集団に、1匹だけ両目の開いたサルがいた。
このサルは仲間はずれにされた。
みんなと同じじゃないという理由で。
それに耐えられず、とうとう自分で片目をつぶしてしまった。

集団の一部になることで、自分を見出したつもりになることの空しさ。

たいていの人間は、自分が所属すると信じているグループ(会社、国家等)の自由を確保維持することに熱心になる。
自分はグループの構成員として服従する。
(この狡猾な処世術を「滅私奉公」などと自讃して、あたかも「無我」と関係あるかのようによそおうが、実態は「グループぼけ」[澤木興道老師]にすぎない)
その見返りに、グループのもっている自由を分割享受できると満足を覚えるのだ。

しかし、ほんとうに必要なものは個的自由だ。
なぜなら、人間は誰でも死ぬときは必ず独りで死ぬほかないからだ。
多くの人は、この一点の理解がないために、ばかげきった一生を終える。





人間は何万年も生きてきたが、いまだに死の問題を解決できないままだ。
もし科学技術で不老不死が可能になったとして、さてそれが死の問題の解決になるのか。
問題はいっそう恐ろしい様相を呈してくるにちがいない。

自然状態の人間には、ただやみくもに生き続けようとする以外に生きる目的がない。
これは、満足されることが決してない、むなしい目的だ。
人間が動物のレベルにとどまっているうちは、人生に救いはない。

人生は無意味だという事実を、明晰に知っている人はめったにいない。


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