智慧とは、何も「自分」「自分のもの」と強く捉えない、もっと強い言い方をすれば「俺は」「俺の」と執着しないということです。 |
これはパーリ語で繰り返し語られた仏教の核心である項目です。何ものも、自分、自分のものと執着しない。ブッダは、この短い言葉は、八万四千項目あると言われる教えのすべてを包含している仏教の核心だと繰り返しています。八万四千項目すべてはこの短い「何ものにも、私、私のもの、と執着しない」という一語に集約されてしまいます。 |
教えのすべてを一つにまとめたらどのようになりますかと、質問する人があった時、ブッダはそう答え、更にこれを聞いただけですべての項目を聞いたのと同じ、この項目を実践するならすべての項目を実践したのと同じ、この項目の結果はすべての項目の結果と同じと付け加えました。 |
つまり、以上で仏教のすべてが言い尽くされている。
あとはこの意味だが、さらに実践に関して老婆親切に説明してくれる。その部分。
サマーディも同じです。もし執着で右往左往しているなら、心を集中させることはできません。どんなにやってもうまく行きませんから、形式的にその場しのぎでやっているだけです。それは儀式としての瞑想でしかありません。 |
しかし心を執着しない方向へ向き変えれば、自然に集中できます。内から安定します。何かをしていても、話していても、歩いていても、食事をしていても、何をしていても内部は集中して安定しています。つまり執着のない心は自然に集中します。幸福であり、機敏であり、いつでも考えたり心を使って働くことができる状態です。だから山を降りるように簡単に集中できます。 |
ここで智慧と呼んでいるもの、それが最高の智慧です。何も私は、私の、と執着しないということが最高の智慧です。どうか、何も私は、私の、と執着するべきではないという智慧、一般的な原則を憶えてしまってください。それを一呼吸ごとに明確に自覚していれば、苦や煩悩が生じるのを防ぐことができます。これが智慧で純潔になる、智慧で苦を滅尽させる一般的な原則です。 |
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『あなたの姿が見えたときは見るだけ。あるいは声が聞こえたときは聞くだけ。あるいは臭いがしたときは嗅ぐだけ。あるいは舌で味を感じたときは味わうだけ。あるいは皮膚に触れたときは触れるだけ。あるいは心で感情を感じたり考えたりしたときは、普通に自然に感じ考えるだけ。こうできるようになれば、その時あなたはない。あなたがなければ走り回ることも、どこかに止まることもない。これが苦の終わりである』 |
(引用終)
確か澤木老師の提唱で聴いた話だと思うが、昔、日照りが続くと、どの水田にどれだけ水を引くか問題を解決できず、殺し合いの喧嘩まで起きた。ところがある時、水喧嘩の真っ最中に大雨が降ってきた。それで問題自体が消えたことに気づき、みんな取っ組み合ったままポカンとしてしまった、という意味の古歌がある。
ちょうどそんな感じになるのだとおもう。
ちょうどそんな感じになるのだとおもう。
(過去記事増補編集再録)