哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

言語はアートマンが神となる構造をもっている


 ウパニシャッドと仏教は共通点が多い。

中でもバガヴァッド・ギーターの教えは類似点が多い。

同時代のジャイナ教と仏教も、言い回しまで含めて共通部分が多い。



だから、
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
(毒矢のたとえ)
という釈尊の教えが極めて重要だ。


釈尊独自の教えを知りたいと思う人は、釈尊がなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。





釈尊アートマン(霊魂)を説かなかった。

釈尊は「汝はそれなり」(梵我一如)を説かなかった。


釈尊は梵我一如的なアイデアを思いつけなかったので説けなかった、という立場を、おれはとりません。釈尊は人々が常に陥るこの種の迷妄をよく承知していました。

 世界中の聖者のなかで、「アートマン」(=我)は迷いだと明確に否定して、教えの根本に据えたのは釈尊だけだ。

この真理は、通常の思考パターンの中では理解できない。


世界中のすべての言語は(したがって思考は)、けっきょくのところアートマンが神となる構造を持っているからだ。

事実、世界の宗教はほとんど、このアートマンに乗っ取られている。

仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。



 他方西洋では、(おれはショーペンハウアーによって釈尊に導かれたのだが)ショーペンハウアー自身は仏教以前からの古代インド思想(ウパニシャッド等)に決定的触発を受けて生涯の主著「意志と表象としての世界」を書いている。
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。

その「盲目の意志」の克服こそ人間の理想だと主張したことで、ショーペンハウアー哲学は釈尊の教えに適っていると、おれは思う。

「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。

西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。







ブッダの感興のことば15章 中村 元訳)より引用します。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。

もしも或る人にとって身体について真相を(おも)うことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。…
この人は
種々の思いに順次に住する

から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。

(引用終。強調は私です)



 静かな部屋に入って、思考を止め、呼吸を整え、アートマンは迷いと知って、ただ「種々の思いに順次に住する」修行ヴィパッサナー実践法は、人間だけが成しえる奇跡だと思う。







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「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。 わたしが説くことは説くと了解せよ。」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU2OTQ0MzIyLmh0bWw-












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「ウオーク・ザ・ライン」上佳作。

ジョニーキャッシュのことは、ほとんど知らないが、この映画は良い。

特にステージシーン、歌が良い。ミュージカルに近い気分で観れる。

ほんとのミュージカル映画は苦手だが、こういうのは楽しい。

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(過去記事統合増補編集再録)