哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

仏説は外道となにが違うのか


 ウパニシャッドと仏教は類似点が多い。

中でも『バガヴァッド・ギーター』の教えは共通点が多い。




 バガヴァッド・ギーターは荘厳なるものの歌、の意で、人格神への信愛の道を説くヒンドゥー聖典です。
ブッダは永遠不滅の人格神を説かなかったので、根本的に違うのですが、個々の具体的な教えレベルでは驚くほど似ています。

例をいくつか。




心によって自己を向上させるべきであり、自己をおとさしめてはならない。
心こそは自己の友であり、また心こそ自己の敵であるから。

(バガヴァッド・ギーター6・5宇野 淳訳)

自ら心に打ち勝った者にとって、心は自己の友である。
しかし、心に打ち勝たない者にとって、心は敵のように反抗する。

(同6・6)

これは、先行するブッダの教えと、ほとんど同じです。

(バガヴァッド・ギーターは仏教その他の教えを取り込んで一応完成した4世紀までに、無数のバージョンがあり、その主張は新旧入り混じっています)

ブッダ


心は人に従うべきで、人は、心に従ってはならぬ。
と説きました。

自己の主人は、自己自身である。他に主人があろう筈がない。自己を制してこそ、得難い主人が得られるのである。
(仏教聖典 法句抄17)

母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
ブッダの感興のことば31・10 中村 元訳)

憎む人が憎む人にたいして、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。
(同31・9)






優れた仏教僧ターン・プッタタートは

 自然の法則で正しくすれば、自然に結果が出て来、期待ですれば散漫になります。簡単な例は、宝くじを買っても期待で精神病にならないで、買ったら買っただけにし、時が来たら当たっているか外れたかを調べます。しかしこういうのが好きじゃない人がいて、買ってくるとバカになって期待し、座って期待し、寝ても期待し、最後には本当に神経の病気になります。…
 …『幸不幸は神様が作るのではありません。幸不幸は古いカンマによって生じるのでもありません。そして幸不幸の原因はないのではなく、原因はあります。原因は、因果の法則で正しく行動したか、誤って行動したかであり、因果の法則に反した行動をすれば苦が生じ、間違わなければ苦は生じません。…』
(ターン・プッタタート法話「家で出家する」より引用)

と、ブッダの教えを説いています。

バガヴァッド・ギーターに、これと類同の教えが


おまえの関心は行為のみにあり、決して行為の結果にあってはならない。…
結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(ギーター2・47.49宇野 淳訳 強調は私です)


と、端的に説かれます。
あえていえば、より印象強く説かれているようにさえみえます。

同時代のジャイナ教と仏教も、言い回しまで含めて共通部分が多い。


 つまり、個々の教えの比較だけでは優劣どころか区別さえつき難い。



だから、
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
(毒矢のたとえ)
ブッダがわざわざ注意していることの重要性に気づくべきです。

ブッダ独自の教えを知りたいと思う人は、ブッダがなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。




すると、決定的に重要なのは、


ブッダアートマンを説かず梵我一如を説かなかった。


ということだと分かります。









ブッダアートマン(霊魂)を説かなかった。

ブッダは「汝はそれなり」(梵我一如)を説かなかった。

ブッダは梵我一如的なアイデアを思いつけなかったので説けなかった、という立場を、おれはとりません。ブッダは人々が常に陥るこの種の根深い迷妄をよく承知していました。

 世界中の聖者のなかで、「アートマン」(=我)は迷いだと明確に否定して、教えの根本に据えたのはブッダだけです。


 大乗仏教を今だに支配している一大妄想

本来本法性天然自性身
人間は生まれながら、そのままで仏である

は梵我一如とおんなじです。

永久不滅全能唯一絶対神(大我)と個々の不死の魂(小我)は一緒というヒンズー教の主張です。妄想2個の串団子!


梵我一如はブッダの悟りでも教えでもないのです。

大我と小我いずれも我に過ぎず、それが一如だとて何の意味がある?

ブッダはすべての我を虚妄と見抜いたのです。





しかし、この

もっとも偉大な真理(無我)

は、通常の思考パターンの中では理解できない。


世界中のすべての言語は(したがって思考は)、けっきょくのところアートマンが神となる構造を持っているからだ。

事実、世界の宗教はほとんど、このアートマンに乗っ取られている。

仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。









 他方西洋では、(おれはショーペンハウアーによってブッダに導かれたのだが)ショーペンハウアー自身は仏教以前からの古代インド思想(ウパニシャッド等)に決定的触発を受けて生涯の主著「意志と表象としての世界」を書いている。
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。

その「盲目の意志」の克服こそ人間の理想だと主張したことで、ショーペンハウアー哲学はブッダの教えに適っていると、おれは思う。

「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。

西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。







ブッダの感興のことば15章 中村 元訳)より引用します。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。

もしも或る人にとって身体について真相を(おも)うことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。…
この人は
種々の思いに順次に住する

から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。

(引用終。強調は私です)



 静かな部屋に入って、思考を止め、呼吸を整え、アートマンは迷いと知って、ただ「種々の思いに順次に住する」修行ヴィパッサナー実践法は、人間だけが成しえる奇跡だと思う。







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「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。 わたしが説くことは説くと了解せよ。」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU2OTQ0MzIyLmh0bWw-












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「ウオーク・ザ・ライン」上佳作。

ジョニーキャッシュのことは、ほとんど知らないが、この映画は良い。

特にステージシーン、歌が良い。ミュージカルに近い気分で観れる。

ほんとのミュージカル映画は苦手だが、こういうのは楽しい。

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(過去記事統合増補編集再録)