哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

苦聖諦を得た人がすべき事

直前記事「苦聖諦さえ得ればall ok」の続きです。

 苦聖諦を理解できたら、アナパナサティ(入息出息への気付き)瞑想を実践する必要が生じます。実践方法は他にもたくさんありますが、アナパナサティはブッダ一押しの方法です。

 アナパナサティは別に難しくない。
ただ自分のしている呼吸に気づけばいいだけです。
長く息を吸ったら『長く息を吸った』と知り、長く息を吐いたら『長く息を吐いた』と知る。短く吸ったら『短く吸った』と知り、短く吐いたら『短く吐いた』と知る。これだけです。

 ところが人間は、この簡単な法が、簡単すぎてできない。
難しいと「難しすぎてできない」と言うくせに、簡単だと「簡単すぎてつまらん。アホらしくてできない」と言う。アホらしいのはお前だろ。


ウ・アチンナ長老特別講議・如何にして苦に終止符をうつかより引用
 瞑想を始める以前の瞑想者のこころは、視覚やその他の感覚器官の対象にくくりつけになってきました。そのため感覚を喜ばすものが何もない生活に慣れてそれが当たり前だと感じるようになっていないので、瞑想の道に入ってゆくのを嫌います。それは野生の若い雄牛をもし車にくくりつけたら、道からいつもはずれようとするようなものです。瞑想をする以前こころは常に、映画、心地よい音楽、美味しい食事、楽しい社交生活などという感覚器官の対象物に接触してきました。そのようなものに大きな喜びを見い出してきました。しかし(瞑想を始めた)今はもう、映画、音楽その他の目や耳を喜ばせるものがありません。そしてこころはちょうど、水から出て乾いた土の上に置かれた魚のように、水を求めて苦しみながら飛び跳ねまわります。いま、入息出息は、乾いた土のようなものです。あまりにも単調すぎて、感覚の喜びをいつも追い掛けてきたこころにとって全く不満足なものです。瞑想(をするはず)の場に座りながら、意識を呼吸に集中するかわりに、こころは昔味わった感覚の喜びか、これから未来に経験するであろうと期待する感覚のよろこびに思い耽りながら、時間をすごします。しかし、これでは全く時間を無駄にしているだけであって、こころの成長には何も役に立ちません。このようにしてたとえ一生瞑想の場に座っていても、何かが良くなるということはありません。
[引用終]



 ろくにできないのは、人生経験から得た苦聖諦の理解が浅いからです。
ではカンポンさんが事故で全身麻痺になったような恐ろしい体験を待つべきでしょうか?願うべきでしょうか?
そうではないでしょう。


苦聖諦の理解を深める一番の早道は、このアナパナサティです。
つまり、苦聖諦なしにアナパナサティは完成せず、アナパナサティなしに苦聖諦は完成しないとも言えます。(ループバグ?)
ここは呆然と立ち尽くさず、強行突破すべき場所だとおもいます。
各人の頑張りしだいで、道が天地に別れる場所です。